金曜日, 4月 4, 2025
ホームスポーツサンガイア、ホームでトヨタに連勝

サンガイア、ホームでトヨタに連勝

今季7勝目

バレーボールVリーグ2部(V2)男子のつくばユナイテッドサンガイア(SunGAIA、本拠地つくば市)は10・11日、つくば市流星台の市桜総合体育館でトヨタ自動車サンホークス(本拠地豊田市)との2連戦を行い、10日はセットカウント3-0、11日は同3-1で2連勝を果たした。つくばの通算成績は7勝9敗、10チーム中8位。

2023-24 Vリーグ2部男子(2月11日、つくば市桜総合体育館)
つくば 3-1 トヨタ自動車
25-21
20-25
25-23
25-21

今季7勝目を挙げ、全員で7のサインで記念撮影(同)

両チームとも2連戦の2日目とあって「昨日と同じ試合では勝てない」と、手の内を変えて臨んだ試合。つくばは勝利をつかんだものの「サンガイアらしいバレーをさせてもらえず、今季の7勝の中で最も苦しい勝利だった」と加藤俊介監督は明かす。

第1セットは互角の競り合いから、終盤につくばが堀夏央哉と鎌田敏弥の投入を機に得点を重ね、セットを奪った。第2セットは序盤に5点のビハインドを負い、途中追い上げはしたものの最後まで点差を引きずり、落としてしまう。第3セットは中盤に相手にリードを広げられるが、終盤につくばが架谷也斗や松田康河の得点で取り返した。第4セットは中盤から濱田英寿や架谷、鎌田らの攻撃でリードを広げ、逃げ切った。

第2セット、架谷が相手のブロックを上から抜く(同)

「試合の前半から中盤にかけては、相手のブロックやレシーブが粘り強く、攻撃が決まらなかった。後半は整理して、相手の守備隊形を見てコースの打ち分けなどをリセットできた」と濱田主将。

「サーブとブロックが機能せず、うちの強みであるレシーブからの得点につなげられなかった。途中からサーブの狙いを変え、ブロックやレシーブで対応して崩すことができた」と加藤監督。

つくばは前日と比べて攻撃の多彩さも増した。ミドルからは十文字龍翔のBクイックが威力を発揮。「相手のブロックも高かったが、空中でトスを待ってコースを突くことができた」と10本のアタックを決めたほか、ブロックやレシーブでも貢献した。バックアタックでは鎌田、濱田、架谷の3人で10本を決めた。「どこからでも得点できるチームを目指しており、バックアタックに関しても攻撃陣で意識して練習に取り組んでいる」と濱田主将。

第4セット、スパイクを決めて喜ぶ十文字(中央)=同

これでつくばは開幕7連敗の後を7勝2敗と盛り返してきた。「監督に就任してすぐ開幕を迎え、準備ができないまま11月は連敗を重ねてしまった。12月の中断期間にチームの方向性を確認して練習を重ねたことが今の好調につながった」と加藤監督。狙いを持たせたサーブから相手の攻撃の先を読み、ブロックやレシーブで対応して攻撃へ展開していく。これは大学時代、恩師の都澤凡夫監督に学んだバレーそのものだという。

「都澤先生の思いを継ぎ、先生が目指した形でのチーム作りがしたい」との思いから、今季つくばの監督に就任。「勝つことだけでなく、地元に愛された上で強いチームを作りたい。選手一人一人が全てのことに一生懸命取り組むことで、身近なところからファンを増やし、応援したいと思ってもらえるチームにしたい」

試合中、選手を鼓舞する加藤監督(同)

加藤監督は1978年生まれ、群馬県出身。深谷高校で春高バレー優勝、筑波大学でインカレ4連覇を経験。指導者としては桐蔭学園高校(神奈川)バレー部を19年間率い、関東大会出場9回という強豪校に育て上げた。「バレーを教えるに当たっては高校生も大人も大きな差はない。一つ一つのミスを減らし、1本1本のパスをつなぐ。誰かが目立つのではなく、みんなが一生懸命やる。それは日本のバレーが目指す方向でもあると思う」と話す。(池田充雄)

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