【コラム・広田文世】
灯火(ともしび)のもとに夜な夜な来たれ鬼
我(わが)ひめ歌の限りきかせむ とて。
明治22年、水戸在住の友人を訪ね、東京から水戸へ徒歩で向かった正岡子規は、いよいよ水戸へ近づいた。足腰からの悲鳴に辛苦の令和追歩組も、県庁手前のバス停で休憩後、どうにか腰をあげ、水戸駅までの最後の詰めに立ちあがる。「どっこいしょ」。歩きはじめが、さらに辛い。
県庁のビルに差し掛かる。ちょっと立派すぎはしないか。身体疲労が、思考を過敏にしているかもしれない。超広幅な歩道の整備も、ありがたいにはありがたいが、なんだか虚しさも覚える。
無機質ビルを後方にし、とぼとぼ歩けば右カーブの左手に、偕楽園、好文亭が見えてくる。これぞ水戸。水戸藩九代藩主斉昭の命で造園された日本三名園のひとつ。それでも、金沢の兼六園などと比べれば、随分地味だ。それが、偕楽園の味だろう。名物の梅も、もともとは戦時備蓄品目的と聞く。
子規は、偕楽園へ立ち寄り庭園の風雅を堪能している。「余は未だ此の如く婉麗幽遠なる公園を見たることあらず」とある。
子規が訪れたときは、幸運にも梅の季節だった。「がけには梅の樹斜めにわだかまりて花いまだ散り尽くさず」と感激している。現在、園内には、子規の有名な句碑が建立されている。
急崖に梅ことごとく斜めなり
子規は、偕楽園の広場で野球に興じる少年たちを見掛け、紀行に記録している。野球とは、子規の訳語(自身の本名=昇=のぼる=野ボール=野球)とか。無類の野球好きで知られている。
帰路特急 南崖の梅 手を振る子
令和版は、千波湖畔へ戻り、水戸駅南口を目指す。最後のがんばりだ。足の裏はいよいよ悲鳴をあげる。湖では、白鳥に餌を投げる人、ジョギンググループ、犬の散歩、ボールを蹴りながら走るサッカー少年。
ふと気が付くと、自分の影が長く伸びている。日暮れが早い。朝の6時から歩きはじめ16時すぎ、水戸駅南口着。どうにか子規先生に報告できるがんばりで歩ききった。
その子規先生、水戸の宿へ着くと、またも不機嫌。「客部屋にあらで三畳じき許りのほの暗き納戸ともいふべき程の処」へ通され、「腹だたしきこと一方ならず されど腹へっては立てられもせず 先ず牛飯を持て来よと命ずれば」、やっとの思いで食事にありついた。最後まで食い物の恨みが恐ろしい『水戸紀行』だった。
令和版は、水戸駅に着き、痛い足を引きずり蕎麦屋へはいり、見えない子規の背中と、ひそかな打ち上げの乾杯をあげる。地酒が喉へしみいる。
水戸からの帰路、子規は、水戸線―東北本線経由の列車で上野へ帰った(当時まだ常磐線の日暮里―友部間は開通していない)。『水戸紀行』の最後にあたり、子規は「正午となれば上野停車場へ帰りぬ、余りの早さにあるきしことのおかしく思われぬ めでたしめでたし」とまとめている。
さて令和版も子規にならい、「特急ひたち」で帰ることにする。水戸駅を発車した特急は、すぐに偕楽園下を疾走してゆく。長いようであっという間の追歩だった。ためしたことのない一句を許してもらおうか。
帰路特急南崖の梅手を振る子(作家)