土曜日, 9月 13, 2025
ホームつくば【戦後74年の夏】4 飛行場があったと零戦が伝える 筑波学園病院のモニュメント

【戦後74年の夏】4 飛行場があったと零戦が伝える 筑波学園病院のモニュメント

【大山茂】「今の若い人たちに戦争の悲惨さを知ってもらい、平和の尊さをかみしめてもらいたい」。元つくば市長で、筑波学園病院(つくば市上横場)を運営する筑波麓仁会の理事長、藤沢順一さん(78)は同病院の敷地内に5年前に建立した戦闘機のモニュメントの前で若い職員たちにこう語る。

病院は戦前の谷田部海軍航空隊(谷田部飛行場)跡地内に建つものの、今ではその面影を失い、過去を知る人は少ない。ところが兵士たちが出撃の際に祈願したという『谷田部神社』が今も病院近くにひっそり佇(たたず)んでいる。毎年桜の咲く時期に元航空隊員たちがこの神社に参拝しているとの話を伝え聞いた藤沢さんが「後世に飛行場が存在した事実を伝えなければ」と、象徴的な零戦像の建立を思いたった。

モニュメントが設置されているのは病院の正面入り口に近い緑地の一角。すぐ隣に飛行場時代から花を咲かせているという桜の老木が2本、まるで零戦を守るかのように枝葉を広げている。御影石のモニュメントは台座を含め高さ約2メートル、零戦の長さは約60センチ。400万円をかけ、笠間市の伝統工芸士に製作を依頼した。

谷田部基地と零式艦上戦闘機六二型=記録集「谷田部海軍航空隊記念碑建立にあたり」に寄せた元海軍中尉、香川宏三さん提供写真

市教育委員会の資料によると、谷田部飛行場は病院の敷地に本館が建ち、常磐自動車道をはさんで向こう側にある農研機構(同市観音台)の研究施設群には芝生の滑走路が、さらにその奥には飛行機を格納する掩体壕(えんたいごう)があった。太平洋戦争の最中には九三式練習機(通称・赤とんぼ)の飛行訓練が行われた。しかし戦局が悪化すると実戦機、零式艦上戦闘機(ゼロ戦)が配備され、10代後半の若い兵士が特別攻撃隊(特攻隊)として南方の戦線に送り出された。

モニュメントの除幕式には元航空隊員や霞ケ浦の予科練生、谷田部神社の世話人、地元関係者らが多数出席した。同航空隊の卒業生で千葉県在住の元海軍中尉は「多くの若者がこの地から出撃して命を落とした。生きながらえた者で慰霊祭を行ってきたが、当時を偲ぶ構造物はなく、寂しい思いだった。記念碑が建立されたことで戦友たちの心の拠り所ができた」と紅潮した表情で語ったという。

病院近くの常磐自動車道に架かる橋の名は『飛行場橋』。銘板に気付く人は少ない

今回、藤沢さんとモニュメントの前で撮影に応じた病院の女子事務員たちは、妻子を残して戦艦に突撃する特攻隊員の苦悩を描いた百田尚樹原作の映画『永遠の0(ゼロ)』の話題に触れながら、「平和な時代に生きていて良かった。これからも日本は平和でいて欲しい」と神妙な面持ちで語っていた。

➡【戦後74年の夏】3はこちら

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つくば駅前「となりのスタジオ」から発信 ラヂオつくば

クレオ向かいの T.S BUILに移転 つくば市のコミュニティーFM「ラヂオつくば」(周波数84.2HMz、つくばコミュニティ放送=堀越智也社長=)のスタジオがこのほど、つくば駅前の商業施設トナリエクレオ3階(同市吾妻)から、向かいのT.S BUIL(ティーエスビル)1階に移転した。新しいスタジオの名称は「となりのスタジオ」。 新スタジオはつくば駅前広場線に面し、つくば駅やバスターミナルを利用する通勤・通学者や買い物客など多くの人が行き交う。前のスタジオの賃貸契約が切れるタイミングで、道路に面した場所に7月28日、移転した。約1カ月がたち、生放送中に通行人が足を止めたり、手を振ったりする姿が見られる。 スタジオの面積は約17平方メートル。2階に上がる階段があり、ゲストの控室にもなっている。 夕方の生放送番組「つくば You’ve got 84.2(発信中)!」(つくばゆうがたはっしんちゅう)月曜日担当の有働文子アナウンサーは「新しいスタジオは、道路に面しているので人の行き交う様子や空の色を眺められて、新鮮」とし「一般観覧ができるようになれば唯一無二の素敵な場所になりそう。地域になくてはならないハブになっていけるように、より精進したい」と意気込みを語る。 昼の生放送番組「what tsukuba」(ワットつくば)金曜日担当の江田麻裕子アナウンサーは「新しいスタジオの前は人通りが多く、地域の人に直接発信している感覚が強い。メディアとして人の目につくことは意味がある」と話し「今後はイベントの周知など、市民が番組を使って発信できるハブになったらうれしい」と語った。 ラヂオつくばは、2008年に設立されたつくば市のコミュティーFMラジオ局。放送区域はつくば市および土浦市の一部だが、インターネットやラジオアプリを使えば世界中から視聴できる。実際スイスから番組を聞いているリスナーもいるという。 ラヂオつくばで生放送されている番組は、月曜から金曜の午前11時から午後1時までの「Wh@t?Tsukuba!」、午後5時から7時までの「つくば You’ve got 84.2(発信中)!」など。(伊藤悦子) ➡ラヂオつくばのホームページはこちら。

「障害があっても住みやすい地域を」根本希美子さん【鬼怒川水害から10年】㊦

電気が止まったとき、命を落としかねない子どもたちがいる―。 つくば市を拠点に、人工呼吸器の使用やたん吸引、経管栄養など「医療的ケア」を必要とする子どもや保護者を支える親の会「かけはしねっと」の代表理事 根本希美子さん(47)はそう訴える。根本さんの長男・侑弥さん(19)も、専用機器を用いたたんの吸引や人工呼吸器の使用などが命をつなぐために欠かせない。活動のきっかけは、2015年9月10日、隣接の常総市を襲った鬼怒川水害で抱いた危機感だった。来年、団体は発足10年を迎える。「障害があってもなくても住みやすい地域をつくりたい」との思いを胸に、仲間たちと社会へ声を届け続けている。 当事者として伝えなければ その日、つくば市の自宅にいた根本さんは、テレビから流れる「常総市付近で鬼怒川が氾濫するかもしれない」というニュースにくぎ付けになっていた。台風が秋雨前線を刺激し、鬼怒川流域で記録的な豪雨が降っていた。 常総市には、医療的ケアを必要とする子を持つ知人が住んでいた。長男より2、3歳年下で、幼い頃から誕生日などの節目の時に近況を聞き合う間柄だった。気になり連絡を取ると「避難先の確保が難しい」という。知人は、かかりつけの病院に問い合わせるも、災害の最中で治療の対応はできるが、避難の対応はできないと言われたという。避難所では機器を使うための必要な電源が十分に確保できない場合がある。「それじゃ、水害の心配のないうちに来ない?」根本さんが呼び掛け、つくばの自宅に避難してもらうことにした。知人はその日のうちに、自家用車に呼吸器、吸引機、それに付随する電源などたくさんの機器を積み込み到着した。 「鬼怒川が決壊した」というニュースが流れたのは、翌日10日の午後1時前。瞬く間に被害は拡大した。次々に家屋が水に飲み込まれ、取り残された人々の様子も映し出される。根本さん宅では子供のケアをしながら、テレビにかじりつくようにの推移を見守っていた。常総市内の約3分の1が浸水。5000棟以上の家屋が全半壊し、取り残された4000人以上がヘリコプターやボートで救助されることになる。 ただ幸いなことに、知人の自宅は水害のあった地域の対岸にあり被害を免れていた。10日のうちに帰宅する知人一家を見送りながら、紙一重だった状況に根本さんは「個人でできることには限界がある。大変な時こそ、日常的につながる人との関係が大切になる」と痛感した。 長男・侑弥さん(19)も、命をつなぐために電気が欠かせない。「当時はまだ、『医療的ケア児』という言葉すら知られておらず、問題も社会に認知されていなかった。自分たちが何に困り、何を必要としているのか、当事者として伝えていかなければと思った」と振り返る。 思いを共にする医療的ケア児の母親らと「かけはしねっと」を立ち上げたのは、翌年の2016年だった。 2018年には、台風による夜間の大規模停電を経験。復旧までの10時間、侑弥さんの命をつなぐ人工呼吸器と酸素濃縮器はバッテリーで稼働を続けた。暗い部屋に響く残量警告のアラーム音に不安が募った。後日、発電機を自費で購入したが、公的支援の必要を感じた。非常時の家庭用発電機購入の助成をつくば市に請願し、上限10万円の助成制度が19年に実現した。さらに21年には、医療的ケア児の家族の体験をまとめた冊子を仲間たちと制作した。当事者を支えるネットワークづくりと課題の理解を広げるために奔走している。 つながりを育む かけはしねっとでは、情報発信に加え、子どもや家族同士の交流イベントの開催、SNSなどを通じた相談支援に取り組んでいる。活動で大切にするのは、楽しく、気軽に参加できる雰囲気づくりだ。根本さんは「障害のある子どもの体調によっては毎回参加できないこともある。毎回参加しなくてもいいし、直前にキャンセルしてもいい。心理的なことも含めて、できるだけ家族の方たちの負担がないようにしたい」と話す。 その思いの背景には、根本さん自身の経験がある。 つくば市出身の根本さんは、2006年に長男の侑弥さんを出産。産後間もなく心肺停止に陥り、脳に酸素が送られず無酸素性脳損傷による障害を負った。明日の命もわからない状況で発熱を繰り返し、口にしたものをすぐ吐いてしまう。その後も入退院を繰り返した。 「『私がこの子の命を背負っている、完璧にやらなきゃ』と必死だった。人とのつながりもなく、いっぱいいっぱいの毎日だった」と振り返る。そんな時、子どもの様子を見るため訪れた保健師の言葉に救われた。 「話を聞いてくれる中で、『お母さんすごい』『頑張ってる』と言ってもらえたことで、自分を認めてもらえた気がした。『私は間違ってなかった。これでいいんだ』と思えた。それから少し息が抜ける感じがし、なんとかやってこられた気がします」 子どものケアを担う母親は、家族以外と関わる機会が限られ、孤独になりやすいという。だからこそ「思いを吐き出せる相手が必要」だと強調する。 「私の場合は保健師さんだったが、誰でもいい。ママ友でもいいし、福祉・医療の人でもいい。障害の有無にかかわらず、誰かとつながり思いを吐き出すことで違う方向に気持ちを変えていけるのでは」 かけはしねっとでは、公式のメッセージアプリに加え、メールやSNSなど複数の手段を活用し、異なる環境にあっても声を掛け合える体制を整えている。 「家族の中だけでは発散できない思いもある。どこかで吐き出せる存在が必要。支援を使いながら自分を大切にしてほしい。日常的な関わりやつながりが緊急時に生きてくる。災害のためだけに連絡ツールを作るのは大変だが、普段からやり取りを重ねていれば、いざという時に電話が使えなくても、メールやLINEで連絡を取れる。だから複数の手段を持つのは大切だと思っている」 「障害があってもなくても暮らしやすい地域になってほしいし、いつか社会の中に理解が広がり、わたしたちのような活動をしなくてもいい社会になれば、それが一番だと思っています」(柴田大輔) 終わり