水曜日, 10月 21, 2026
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校舎を「能動的な教育空間」に《よぎさんの眼》4

【コラム・よぎ(P.ヨゲンドラ)】日本の学校教育改革を語る際、多くの場合はカリキュラムや授業内容ばかりが議論される。しかし、本当に見直すべきものの一つが「校舎そのもの」である。現在の日本の公立学校の多くは、「壁・黒板・机」を中心とした昭和型構造のまま止まっている。老朽化も進み、暗い廊下、固定化された教室、閉鎖的な空間設計が、生徒と教員双方の創造性を抑制している。

学校の建物を「学びの道具」に変える

本来、校舎は単なる箱ではない。校舎そのものが、生徒の思考、対話、挑戦、協働を促す「教育の道具」であるべきだ。海外では、すでにその発想が進んでいる。例えば欧州では、図書館、廊下、カフェテリア、共有スペースを一体化し、「学ぶ・語る・創る」を促進する校舎設計が増えている。一方、日本では「静かに座る」ことを前提にした教室構造が依然として主流であり、対話型・探究型教育との間に大きな矛盾が生じている。

私は、校舎全体を「能動的な教育空間」に変えていく必要があると考えている。例えば、壁全面をホワイトボード化し、生徒が自由に議論や図解を書き込める空間をつくる。プロジェクターを活用し、映像・図・データを即座に共有できるようにする。廊下には、生徒が放課後に自習や議論できるテーブルや照明を整備する。

さらに、校舎には「心理的空間」としての役割もある。暗く古い空間では、生徒の気持ちも沈みやすい。一方、明るく清潔で開放感のある環境は、生徒の自己肯定感や安心感を高める。全館LED化やエアコン整備、整理整頓などのインフラ改善は、一見地味に見えるが、生徒の学習意欲や学校への愛着形成に大きく影響する。

教育現場は急速に部活動から離れようとしている。部活動に使うインフラどころか、災害大国として必要とされた水泳プールですら維持できなくなっている学校が少なくない。限りある資金の無駄遣いを止め、「生徒ファースト」を掲げ、生徒にベストな環境を提供するのは行政の重大な責任である。

偶然の出会いを生み出す空間

また、校舎改革は単なる快適化ではない。学びの「偶然の出会い」を生み出すことも重要である。例えば、廊下に地域課題や生徒作品を掲示する。階段に励ましの言葉や英単語、科学図解を配置する。パズルや積み木を置き、自然に思考力を刺激する空間をつくる。学びを教室内だけに閉じ込めず、学校全体へ広げるのである。

人口減少により、多くの学校で統廃合や生徒募集競争が進んでいる。これからの時代、学校は「ただ存在する建物」では生き残れない。生徒、保護者、地域が「ここで学びたい」と感じる魅力的な空間づくりが必要になる。これから建て替える学校は2100年まで使い続けるという前提で、各教育委員会、または国として、校舎デザイナーに依頼し、未来型学校をデザインすべきである。既に迎えたAI時代をどう通過するか、今後の変化を迎えられる柔軟な学校構造を工夫する必要がある。

教育とは、人を育てる営みである。そして、人は環境によって大きく影響を受ける。だからこそ、未来の教育改革において、校舎改革は単なる施設更新ではなく、「学びの哲学」を形にする重要な挑戦なのである。(土浦一高・付属中学校 元校長)

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つくばの記憶 1970年代の竹園と千現《デザインを考える》37

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