煩悶(はんもん)させる幸福
【コラム・2年 S.Y】今、あなたは草むしりをして泥だらけである。目の前には浴室がある。あなたはシャワーを浴びたくてたまらないけれど、ある人が言う。「今はシャワーしか使えない。2時間待てば、シャワーに加えて湯船に浸かれる」。あなただったら、どちらを選ぶだろうか。
私であれば、真っ先に後者を選ぶだろう。私は、未来に取りつかれている。先のことばかりを考えて行動する。先のことばかり考えるがために、苦しくなることもしばしばある。例えば、夕飯に家族で外食に行くとなれば、私は昼食をほとんど食べない。なぜなら、お腹を空かせて夕食を最大限に楽しみたいからだ。しかしこの作戦にはデメリットがある。それは、午後の空腹に耐えなければならないということだ。夕食まで何もしなくてもいいならまだしも、私の場合午後に予備校に行かなくてはならないことが多いので、空腹に耐えながら小テストと3時間の授業を受けねばならないことになる(さらに悲しいことに私の通う予備校は家から電車で2時間かかる場所にある。この耐久レースは想像を絶する辛さなのだ。こうして私は美味しい食事の代償として空腹と戦う)。
将来の幸せを求めるという傾向は、私だけでなく、今コラムを読んでくださっているあなたにも当てはまることかも知れない。弘前大学の鈴木将晃さんが卒業研究として2017年に実施した、同大の学生75人を対象に実施した質問紙調査によると、「現在は不幸せである」と感じる人には、「将来は今よりも幸せになる」と予想する人の割合が圧倒的に多い一方、「現在は幸せである」と感じる人には、「将来は現在よりも不幸せになる」と予想する人の割合が最も多いという結果が出ている。
将来的に幸福を感じるために、今あえて苦痛に向かうことは、果たして幸せと言えるのか−。
私が本コラムへの参加を決めたのは、私が日々切実に感じてきた葛藤から脱したいという、他ならぬ理由がある。と言っても、そう簡単に解決できる事柄ではないため、今回は、将来の幸せと未来の幸せについて私自身が考えを整理するために、幸せとは何か?という根本的な部分を、時間観とからめつつ述べたい。

キリスト教世界の人々は、死後の世界に幸せを求めた。キリスト教では、世界の終末にキリストが再び現れ、「最後の審判」が行われるとされる。人々はこの最後の審判に向かって、人生をプログラムしていくのである。古代哲学を振り返ってみよう。プラトンによる「洞窟の比喩(allegory of the cave)」をご存知だろうか。彼の著書「国家」第7章で用いられる有名な例えである。人々は出生時から、洞窟の中で入り口に背を向け、縛られた状態で閉じ込められており、彼らは目の前の壁だけしか見ることが出来ない。実際は彼らの背後には火が灯されており、皆その火によって目前の壁に映し出される人の影を実在だと思い込むのである。ある日、1人の囚人の拘束が解かれ、その囚人は今まで自分が見てきたものが影に過ぎなかったことに気付く。そして洞窟の外、太陽の光の下に連れ出されてやっと、真の実在を目にし、その存在を確信するに至る−。
永遠不変の本質に即した世界である「イデア界」なるものが存在し、私達が普段目にしている世界のあらゆるものは、映し出されたイデアの像の集合に過ぎない。簡単ではあるが、これがプラトンのイデア論の概略である。イデア論の下では、人々が死後に行くのはイデア界であり、その像の世界である現世よりも、死後の世界の方が高い価値を有すると評価されていた。このような、ユダヤ教のプラトン的解釈が、キリスト教の原型となっている。キリスト教的世界観に立ってみると、幸せが神やイデアのように絶対的な概念として捉えられていること、そしてそれは内面の充実と同値関係にある(等しい)ことがわかる。
しかし、この神を中心とする価値観は、ニーチェによって決定的に破られることとなる。「神は死んだ」という言葉に表されるように、ニーチェは、神を絶対的な価値基準に置くことを否定し、自ら価値観の創造に努めることの重要性を説いた。実存主義で有名なサルトルは、人間は自らを作り上げる自由を持つと考えた。つまり、幸せの定義は、絶対的な「神」ではなく、相対的な「個人」に委ねられたことになる。そして人々は、死後の「最後の審判」ではなく、(肉体的に)生きている間の、自らが設定した目標に向けて、人生を設計するようになったのである(*脚注1)。
では、ここでいう「目標」とは何だろうか。目標とは、個人が幸せを得られる何かであるはずだ。私は、幸せは二つのベクトルで測られると思う。
一つ目の区分は、動物的なヒトとしての幸せと、社会の中の「個人」としての幸せである。前者は、寝食など生理的な欲求を満たすことである。一方後者は、成立に必ず他者が必要な幸せのことで、例えば家族からの愛や社会的な承認(「記号」の消費(*脚注2)とも言えるかもしれない)などである。
二つ目の区分は、絶対的な幸せと、相対的な幸せである。ここでは、前者をキリスト教的幸せ、後者を仏教的幸せと呼びたい。キリスト教的幸せは、神という絶対的存在の元で成り立つ、幸せのイデアだ。一方、仏教的幸せは、神を絶対的存在として想定せず、輪廻や煩悩から解脱を求める。つまり苦しさから逃れることで得られる差異による相対的な快適さである。私がコラム冒頭で示した例を思い出していただきたい。おいしい食事は、いつ食べてもおいしい。これは認めるにある程度妥当である。それにも関わらず、私が夕食まで必死に空腹と対峙するのはなぜか。それは、あえて空腹という苦痛を感じた状態を経ることで、相対的な幸福を最大値まで持ってゆきたいためなのだ。つまり、この場合に私が求めているのは、まさに「仏教的幸せ」と言えるであろう。

では、これら二つのベクトルで測られる幸せを得ることが「目標」なのだとしたら、それにどう向かっていくのか、という議論は避けられない。私は、この点において、コロナ以前と以後で、アプローチが変わったのではないかと考える。そしてこのことは私達の世代にとっても非常に切実なのである。新型コロナウイルス感染症が世界に影を落とし始めた時、私は小学5年生であった。その時突然、対面で授業を受けられなくなり、旧友との交流も絶たれ、学校行事も中止か変更を余儀なくされた。当たり前だと思っていたことが、この時を境にがらりと変わってしまったのだった。だからこそ、私達若者世代は将来が、不安で不安でたまらないのだと思う。
当たり前はいつなくなるかわからないという現実を突きつけられた私たちは、長期的な目標を持つことが難しくなっていると感じる。今までは、人生の終わりを最終到達地点として長期的目標に向けて人生設計を行うことができた。それに対し、今を生きる人々は、未来に取りつかれているが故に、短期的な目標を一つずつ達成していき、階段状により高度の幸せを求めるようになったのではないか。短期的な目標を達成する方が、自分が期待していた未来を得ることは容易になるからだ。一方で、一つの目標を達成すれば、次に設定する目標と一つ下の目標との高さの差は、指数関数的に広がっていくように感じる(図1)。(まるでガウス記号のグラフのよう…)私は今まさに、そんな状態だ。不透明な将来の中で、確約される幸せを求めて一歩一歩、階段を踏みしめながら進んでいる。それでもしばしば踏み外したり、段を飛ばしてしまったりする。上に行くほど次の段を登ることが難しいために、圧倒されたり、無気力になったりする。それでも、私は私なりの幸せを見つけ、もがきながら進んで行くのだろうし、それが、今まさに将来の岐路に立っている私達高校生の特権だとも、私は思う。

*脚注
1 ニーチェの永劫回帰(*1-2)とは異なる進化論的な終末観が形成されたと言っても良いだろう。ここで言う進化論的な終末観とは、いわゆる「神の死」以降、キリスト教的世界観に自然科学的な解釈が加わり変形してできた世界観である。ニーチェが否定したのは、このような終末観を含めたキリスト教的世界観全体である。ただし、神の死以降の幸福観も様々であったことを追記しておく。
1-2 ドイツの哲学者であるニーチェの思想。ものごとが全く違わずに永遠に繰り返されること。始まりも終わりもなく変わらぬ人生が永遠に繰り返されれば、生の目的も意義も失われてしまうように思われるが、それでも永劫回帰を受け入れ肯定することが、「力への意志(平たく言えば向上心)」であるとニーチェは説いた。
2 記号とは、ある社会集団が制度的に取り決めた「しるしと意味の組み合わせ」のこと (内田樹「寝ながら学べる構造主義」より) 。ソシュールが定義したもので、その後もバルトなどの哲学者の思想に影響を与えた。ここで「記号の消費」が意味しているのは、例えばブランド品の購入など、社会的なステータスを提示するためだけの行為のこと。






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