月曜日, 10月 12, 2026
ホームつくば中村吉男氏 最後の訴え 全文文字起こし 茨城6区 衆院選'26

中村吉男氏 最後の訴え 全文文字起こし 茨城6区 衆院選’26

➡音声はこちら。

皆様こんにちは私、中村吉夫と申します。このたび第51回衆議院選挙最終日、無事、皆様の力添えを賜り、またご支援も賜りながら、選挙期間、無事闘い抜くことができました。まだ残すところ若干の時間ございます。明日投票になります。

今までこの三十有余年、こちらの石岡で、それ以前ですね、生まれ育ち育んでいただいた、そしてこの6区で皆さんと共にお祭りを楽しんだり、そういう思い出がぎっしり詰まったこの石岡から公示日を迎えさせていただいて、そして、この6区の中を、この27日からの2月8日の投票日まで、この時間、皆様と共にいろんな選挙区を回らせていただいて、思いを伝えてまいりました。

いろんな思いがあります。皆様に伝えたいことはまだまだたくさんあります。この地場にしかできないこと、そしてこの地場から未来へつなげていけること、この2つをですね、私のその、いろんな盛衰というものがございます。栄枯盛衰というものは、時代時代にございます。その栄枯盛衰をずっと見つめてきた中で、これからの、未来につなげる道は一体何だろうか、ということを考えてまいりました。そしてその思いを伝えてまいりました。

そして9条、やはりこの12年間という時間軸だけを、まず私の当選後は憲法改正、交戦権という部分ですとか、もちろんその、戦力を陸海空の戦力を保持し、永久にこれを放棄したり、保持しないとか、憲法前文の、平和を愛する諸国民の公正と信義に信頼し、我らの安全と生存を保持しようと決意した、この前文だったり、9条の部分だったりとか、生存権だったりとか、いろんな、その権力と差別のお話の中で、私の思いを、思い思いを皆様に伝えてきたところでございます。

これ何としても、国の基盤である9条、この憲法の部分を、これは一から全部変えるということではなくて、戦後レジーム、80年からの脱却、その以前はですね、大日本帝国憲法というのがあった、ここから日本書紀、古事記、それこそ神代、古代と、ずっとこう、あの学校でも教えてないような、このお祭りのあるようなこの地元から、またいろんなことが、こう発信できるんじゃないかと思うんですね。政治とはつまり、この祭りごとを収めるということだと思います。そして国家観念の表出、これが政治の本来の政治家のあり方じゃないかと思います。

時に歯に衣着せぬ言い方もしなければならない。そういう中で、これからの未来をどう描いていくか、その未来を、この国土から世界に発信するためにどういう未来を皆様に伝えていくかということを、これからもどんどん疑問提起をしながら、問題提起をしながら、航空宇宙開発、そして私の最終的な、政治家、政治家は、憲法9条までなのか、それとも航空宇宙産業開発のところまで行けるのか、ここは3つであります。

政治家としては憲法9条、この改正までは何としても、私が12年という時間軸で、前倒し有りです、後ろ倒し無しです、12年がMAXというその時間軸だけは皆さんにお伝えしながら、この時間と空間という、この時空を超えた航空宇宙産業の開発、最近もブラックホールがいっぱい見つかったりとか、その質量がどんどん日に日に広がっていく、この広大無限な宇宙開発、広大無限な航空宇宙産業の開発というところを主眼にですね、これからどんどん広げていければというふうに考えております。

そして最終的には未来を創造という実績が伴わないと、なかなか出版して書店で買ってもらえるかどうかというのは分かりませんけれども、どこにでも売っているような書物を置いてですね、上巻下巻みたいな形でね、ちょっと変遷を、ほとんど変遷だと思うんですけれども、未来を書くことは、例えば、30ページに満たないんじゃないか、上巻下巻でも。そんな中で、皆さんが何かつまずきそうになった時に、これ刺さるんじゃね?なんて言いながら、若い人たちが、これ刺さるよね、この言葉。俺これだよ、俺の境遇でこれだよとか言えるような、そういう未来につなげられる、そういった続きというか、そのto be continuedみたいな、そういう書物を残していきながらですね、ということを考えながら、まず何にもかににも、このターニングポイント、9条を改正するときが大きなターニングポイントになります。私はアンカーポイントをそれぞれ置いてきます。その時々に、まず最初の第一歩が、これ小さな一歩です。

私のできることほんの小さなことかもしれないです。これから議会に、私は国政の、皇居の隣にある国会議事堂に大正12年、13年に、12年だと、すいません、ちょっと1年前後していたら、立ち上がった関東大震災後から歴史を繰り返す、ペリー提督が来たような歴史を繰り返さずに、何とか食い止めた帝国ホテルで炊き出しをやったという、そういうホテルマンをスタート、京王プラザホテルがスタートだったんですけれども、そういう中で戦後レジームからの脱却をしてですね、私をどうか国政の舞台に、ベクトルの中に置いてみてください。

本当に時間が、アンカーポイントを、まず第一点そのアンカーポイントを置いてみてもらって、構図をそこからどんどん整えて、皆さんでこのデザイン志向というか、そのグランドデザインを、私がこうやって、あのざっくりとしたグランドデザインしかお伝えすることできないですけれども、いろんな議案が出てくるのが、社会保障の問題ですとか、夫婦別姓の問題ですが、いろいろ出てきます。戸籍法の問題とか、過去があるから今があって、今があるから未来へつながる、過去全部なくしちゃったら未来もなくなっちゃうんで、まず過去を振り返りながら未来へつなげていけるという、そういう視点というか視座を共有しながら、皆さんとともにこれから時代を創生したり、創生しながら皆さんとともに時代を描いていけたらという風に考えております。

何にせよ、国会議事堂に私を送ってみていただいて、まずシームレスな時間が、なんでこんなにあかんだろうとか、なんかこう頓挫しちゃってるよねとかいうのが、なんか知らないけれども先に進んでるよとか、いうことがあると思います。

あともう一点は、今どうしてもこれをお伝えしたいこと、この選挙でお伝えしておきたいこと。当選したいです。皆さんの清き一票、熱き一票が必要です。ただ私が行くことによって何ができるのかというのは、これ未知数であります。未知との遭遇もあるかもしれません。未知数であります。創造の目というものはそういうものだと思っております。前例踏襲というのが、ああいう世界ではもう100%、120%かもしれません。でもその創造の目というのは、その未知数ですとか、前例踏襲の中を精査して検証して、これは残して、これは、とかいう、そういう目が必要じゃないかとも思うんですね。

だから私みたいな、一人のそういう人間を、その歴史からなんか紐解けるような、そういう存在っていうのも、私も使命をずっと考えてまいりまして、私の使命は政治家一択だなということで、出馬させていただいております。

なのであと1点、高市総理の時にこの北朝鮮問題、国交正常化できる、本当に今この軍事が、地勢学的バランスが、核と、拉致と、本当に目の前に問題があります。この問題を解決するためにも高市総理の時にですね、ぜひ、要するにというか、全員、拉致の方が、生存権とか国としての体をなしてないという、そういう問題になってきてしまっているんです。

戦後レジームからの脱却、自虐史観なんです。日本人のポテンシャルというか、潜在的にある国土といい、海洋国家の中にある日本人というのは自虐史観というもので、どうしても、その、伏し目がちというか、そういう感じになってしまっております。

だからアクセルとブレーキをとにかく一旦、同時に思いっきり踏み込まないで、一旦力を抜いていただいて、私をまず送ってみてください。そこから見通しが、私も見通しを皆さんに伝えていきます。そして大変相互するわけじゃないです、大風呂式広げるわけじゃないです、できることはほんの少しだけなんです。あの国会議事堂のベクトルの中に私を置いていただければと、何かしらそこから皆さん、それぞれ私の名前を書いていただいた方、この方は私はこれ約束できるかどうかがないです。アイデアというか、発想の中で、私の名前を書いていただいた方は、自分たちの境遇の中で、あれ吉男、そういえばあんたこういう、こんなこと言ってたな、あいつ政策でこんなこと言ってたな、グランドデザインを描く、グランドデザイン、こんなグランドデザインを描いていたなという、なんかこうそのアイデアがどんどん発想というか出てきて、じゃあ私の境遇ではこういうこと、あいつこういうこと言ったら、私の境遇はこういうことできるんじゃん、私の経験値とか、そういうところから、これかなとか、そういうことができるんじゃないかと思っております。

そんなもんです、私の存在っていうのは私の存在意義いというのをずっと自分の中で見てきたんです。自分というものを俯瞰してみることもできます。なので医療介護ですとか、そういった難しさというのもあったりするのもあります。社会保障制度とか若者が悲鳴を上げていて、この社会保障制度を税からどうしようとか、今この部分もすごくクローズアップされているかと思います。

そういったことも社会実装するために、社会実装して皆様の暮らしに反映するためにも、まず私の名前を書いてください。選挙に行ってみて私の名前を書いてみてください。死票にしないでください。無所属です。

政党政治、大事なんです。この人間というのは社会動物ですから、政党政治こそ大事なんです。ただ赤信号みんなで渡れば怖くない、じゃあ、これ赤だよね、青だよね、いやそりゃ赤なんだよって言っても、いやこれ青じゃんって、青なんでしょって、渡ってみてくださいとしか言えないんです、私も。

政治は国民のものです。皆さんの一票一票が私を支えていただき、ご支援していただき、そういえば、政治は現実でもあります。リアルとバーチャルの乖離というのも、理想と現実というのも、そこで少しずつ乖離を認識齟齬だったり、埋め合わせをしていって、徐々に自分の暮らしの中に落とし込んでいただいて、そして幸せを実感できるような、まずいなぁとかいうのも、やっぱり愛は食卓にあるじゃないですけれども、おいしいものがある、家庭があって結婚出産、子育てがあって、そしてその子供たちが、いろんな方との出会いの中から、社会人に出て、結婚出産して、そしてまた老後を迎えて、そしてまたという、そういうサイクルをですね、悪循環じゃなくてですね、いい循環を、負のスパイラルじゃなくて足し算にもなるし掛け算にもなるよと、引き算じゃないでしょうというような、そういうその時代を創生していければという風に思っております。

なのでまず清き一票、熱き一票で私を国政に、国会議事堂に送り込んでいただいて、現実の国会議員の中村吉男、中村吉男なんだと、国会議員なんだ、国会議員、中村吉男を、この6区からどうぞ国政のあの舞台に。舞台袖から、私はできること、ほんのちょっとです、議員一年生です。議員、政治経験もないです。ただいろいろ見てきた経験ですとか、見てきたものは伝統古来なものですとか、伝統として必要なものとか、ここは残しといた方がいいんだろうな、ここはアホだと思うんだよな、渡っちゃった方がいいんじゃないかなとかいう、そういうその、ご提案とか提起とか疑問提起とかはしながら、皆さんと共に煮詰めて、焦げ付く前に、美味しいスープを冷めない距離で、美味しいねという共感しながら言えるような、そういうその、ちょっと料理で例えてしまいますけれど、そういう時代を想像していければという風に考えております。なので、まずは現実の、国会議員中村吉男として、この6区からどうぞ押して押して押し上げていただいて、投票にはそういう未来を想像するためにも、もちろん前例踏襲というのも大事です。前例踏襲でいい部分悪い部分でPDCAを回しながらプラン・ドゥー・チェック・アクション、プラン・ドゥー・チェック・アクションとか、ぐるぐるぐるぐるやりながら、検証したり、また行ってみて、これはいいね、これは悪いねということを検証しながら、時間の中でともにいろんな懸案事項ですとか、共有しながら、私がご提案しながら、行き来しながら皆さんに伝えていこうかと思っております。

これから、どうぞ皆さん、もう明日には結果が出ます。本当に私の思いはこれからどんどんどんどん、この地上にいる間は、皆さんにどんどん伝えていきたいと思います。こうあるべきじゃないかなと、いや違うんじゃないのとか、そういうキャッチボールをしながら、まずは私中村吉男に未来を託してみてください。この地元を託してみてください。よろしくお願い申し上げます。政党政治は大事です。政党政治は大事ですが無所属です。私はいろんなことを広く見ました。やはりこの、挙党一致なのか、憲法9条改正は挙国一致なのか、ここは非常に大事なんです。挙国一致で非常にセンシティブな問題でもあります。挙党一致なのか挙国一致なのかいろんな問題があります。なので党議拘束ですとかいろんなことも考えました。

私は野に出て、無所属でこの憲法改正を、私の使命というものを感じまして、この選挙で皆さんにこの思いをお伝えしながら訴えて訴求しつつ、どうぞ私、中村吉男にこの未来を託していただければというふうに思い、今日は最後の最後のお願いでございます。

これで私はマイクを収めます。一旦マイクを収めます。どうか皆さん、石岡の皆さん、そしてこの茨城衆議院、第51回衆議院議員茨城6区から出馬させていただいたこの6区のご協力、ご支援いただいて、私を見ていただいた皆さん、育んでいただいた皆さん、どうぞ最後の最後までご支援賜りますよう、よろしくお願い申し上げます。この6区には私中村吉男あり、無所属ですが、政党政治大事です、死票にしないでください。どうか私中村吉男に、清き一票、熱き一票を投じていただければと存じます。よろしくお願い申し上げます。

最後の最後のお願いに参りました。どうぞよろしくお願い申し上げます。中村吉男でございます。よろしくお願い申し上げます。ありがとうございました。今後ともご支援賜りますよう重ね重ねよろしくお願い申し上げます。

➡NEWSつくばが取材活動を継続するためには皆様のご支援が必要です。NEWSつくばの賛助会員になって活動を支援してください。詳しくはこちら

スポンサー
一誠商事
tlc
sekisho





spot_img

最新記事

33年間も付き合ったハイエース《鳥撮り三昧》18

【コラム・海老原信一】2026年9月2日、車との32年と9カ月の付き合いに終止符を打つ日がやってきた。家族とのキャンプやスキー、野鳥を求めての野宿旅、普通の人なら入らないような所へと入り込んでは、あちらをこすり…、気が付けば「身体」はボロボロになっていた。 文句ひとつ言うでもなく、1993年11月5日登録のハイエースは40万7000キロも走り続けてくれた。8月30日、「もうこれでお終わりにしたい」と言われたような故障が発生。何とかならないかと思案したが、そう理解した。恥ずかしい話だが、涙があふれた。 長過ぎた付き合いだった。いろんな思いが詰まってしまっていた。それは家族との思い出であり、自身の生きてきた時間そのものだから。代わりの「相方」が必要なので、前車と同様に頑張ってくれる車種を探すが、価格高騰がネックとなっている。野鳥を求める旅には支障があるけれど、しばらくは悩み続けよう。 鳥たちと毛虫 9月下旬から10月中旬にかけて、桜が植えられている場所で、葉が色付き、落ち始めるとカッコウの仲間が姿を見せる。これまでの観察経験ではツツドリの幼鳥が多い。旅の途中、栄養補給のため桜に着く毛虫を求めて来るのだ。 毛虫は人には嫌われる存在だが、鳥たちには大事な食料。とはいえ、くちばしに毛虫をくわえているのを見ると、「それを食べるんかい」との思う。自分が口にしているのを想像してしまうからなのかもしれない。それでも、毛虫を食べる人もいるようで、その人の書いたものを読んだ記憶がある。 かの鳥たちは桜の葉が無くなるころにはいなくなるが、一体どのくらいの毛虫を食するのだろう。彼らが食べることで桜が守られることもある。そう考えると、他の命を支えるという相互の関係が思われる。世の中はそんな関係で成り立ってるのかもと思う。(写真家)

抗がん剤治療が効き10カ月《ハチドリ暮らし》66

【コラム・山口京子】「死に時に あらがいつつも 迷いつつ…」。今の自分の心持ちです。昨年12月にがんと告知され、医師に「治療をしなければ余命8カ月。治療して功を奏した場合は2年半」と言われました。月に2回入院して、抗がん剤治療が効き、10カ月が過ぎました。 そうした中、良寛さんの言葉を思い出しました。1828年、良寛さんが71歳のとき、新潟で大地震が起きました。被災し、子どもを亡くした知人に宛て「災難に逢う時節には、災難に逢うがよく候。死ぬ時節には死ぬがよく候」と。色身と法身を一身に生きた良寛さんならではの言葉だったのでしょう。 昨今の天災は人災の要素が高まっています。医療技術が進み、かっては助からない命が助かるようになった時代に生き、自分は死に時をどう考えるのか…。末期がんとどう向き合うのか…。 国民皆保険制度で、受けられる治療であれば受けてみる。高額になる自由診療は見合わせる。自分でできる食事・運動や生活改善はやってみる。手の届く代替治療やサプリメントは可能な範囲で利用する。こうして過ごしてきました。 抗がん剤治療で時間を稼いで、できるならがんの進行を遅らせ、がんを小さくし、その間に、体力・体調・体重をキープし、自分の免疫力や自然治癒力を高め、標準治療に頼らないで、がんと共存できたらという願いがあります。 どんな物語を紡ぐのか そう願う一方、抗がん剤を止めたらがんが増殖するのではないか、抗がん剤が効いて手術ができるようになったのに手術をしないのはどうかと、迷っている自分がいます。 自分の心身は自分の支えでもあり、制約でもあるのでしょう。制約を取り払うことができるなら、何が見えてくるでしょう。人が生きていくに当たって、物語と意味は不可欠なものかもしれません。どんな物語を紡ぐのか、何にどういう意味を込めるのか。 自分の自分と、他人の自分、たくさんの他人の自分で構成される社会で、平和に暮らすすべとは、いかなるものなのでしょうか?(消費生活アドバイザー)

駅名板やヘッドマークなどお宝40点 土浦まちかど蔵で「筑波鉄道展」

1987年に廃線になった筑波鉄道の歴史と、現在の自転車道「つくば霞ケ浦りんりんロード」のつながりを紹介する「筑波鉄道展」が9日から、土浦市中央の観光拠点、土浦まちかど蔵「大徳」で開かれている。駅名板、ヘッドマーク、切符などお宝約40点が展示されている。 鉄道愛好家でもある土浦市観光協会の浅川善信さんが、筑波鉄道を運行していた関東鉄道の倉庫に眠る鉄道資料の中から、選りすぐって展示した。関東鉄道、JR土浦駅などの協力を得て同市観光協会が主催する。 展示されている駅名板は、筑波山観光の玄関口として当時、観光客でにぎわった「筑波駅」(つくば市沼田)と、旧新治村の「常陸藤沢駅」の2点。 ヘッドマークは、臨時列車「つくば」、急行「つくばね」の車両の先頭に取り付けられていたものなど3点。臨時列車のヘッドマークは、かつて筑波山の観光シーズンなどに、国鉄上野駅から臨時列車を運行していた記録でもあるという。急行は、1960(昭和35)年ごろ、土浦ー筑波駅間をノンストップで運行していた急行に取り付けられていた。ほかに、廃線間際の車両に取り付けられた「さようなら 筑波鉄道 ありがとうございました」と書かれたヘッドマークも展示されている。 さらに、土浦駅の隣の新土浦駅で実際に使われていた、列車の運行を監視したり制御するためのスイッチが収められた制御盤や、1983(昭和58)年に田土部駅に掲示されていた旅客運賃表なども展示されている。制御板は、右上に国道踏切、右下に六号国道踏切とある。当時、筑波鉄道が土浦市内の国道6号を横切った際、住民は踏切で長く待たされた。浅川さんは「土浦市民にとっては懐かしい思い出として記憶に残る踏切なので、こういうふうに踏切を制御していたんだと分かる制御盤」だと話す。 旅客運賃表には、田土駅から土浦駅までの運賃が当時340円だったことのほか、上野駅や横浜駅、宇都宮駅までの運賃も書かれており、当時、国鉄への乗り換えが多かったことがわかる。 ほかに、1896(明治29)年に製造されイギリスから輸入されたレールを切断してつくった文鎮、客車をけん引していたディーゼル機関車のブレーキハンドル、レールを固定するために打ち込んだ犬の頭部の形に似た犬釘など珍しい資料も展示されている。 浅川さんは「サイクリストには、りんりんロードに鉄道の歴史があったことを知ってもらうと同時に、鉄道ファンには現在も現地に残る筑波鉄道の遺構を自転車で巡ってもらえれば」と話し、「折に触れて、その場所にあった筑波鉄道に思いを馳せていただければ」としている。 筑波鉄道は1918(大正7)年に開業した土浦駅と岩瀬駅を結ぶ40.1キロの鉄道で、開業当初は蒸気機関車が黒い煙を吐きながら、客車2両と手荷物車、郵便車の計4両を引っ張り1日6往復した。1925(大正14)年に筑波山ケーブルカーが開業してからは、筑波山観光に大きな役割を果たすようになった。一方1970年代以降の道路整備や車社会の普及により沿線住民や観光客の鉄道離れが進み、1987(昭和62)年に廃線となり70年の歴史を閉じた、廃線後、線路跡地を茨城県が買収し、2002年に自転車道「つくばりんりんロード」を整備、2016年には霞ケ浦自転車道と統合され、ナショナルサイクルルート「つくば霞ケ浦りんりんロード」になった。駅のホームには現在、サイクリストのための休憩所などが整備されている。(鈴木宏子) ◆「筑波鉄道展」は19日(日)まで。入場無料。開館時間は午前9時~5時。18日(日)午前11時からと午後1時からの2回、筑波鉄道に関する鉄道ビデオを会場で上映するほか、同日午後2時から、鉄道関連グッズが当たる抽選会を開催する。詳しくは土浦市観光協会のホームページへ。

カフェ&ラボ テラッツァ《ご飯は世界を救う》75

【コラム・川浪せつ子】公益財団法人つくば文化振興財団が運営する「つくばカピオ」(つくば市竹園1丁目)では、室内アリーナ、会議室、和室などの施設を借りることができます。ここでは、バスケットリーグ、大相撲つくば場所などのスポーツイベント、音楽リサイタルなどの文化プログラムが開かれています。 その西側に、ガラス張りのステキな平屋の建物があります。以前は、障害者関係の方々が飲食店をやっていました。ところが閉店していまい、今年6月、「Cafe&Labo TERRAZZA(カフェ&ラボ テラッツァ)」という名前のイタリア料理店がオープンしました。 私は月1回、つくばカピオの小会議室を借りて、水彩画教室をやっています。教室が終わってから、皆さんとTERRAZZAにご一緒しました。外観だけでなく内部もオシャレで、都会的ないい雰囲気。お店の方も親切です。隣には、展示などができるフリースペース(有料)もあります。 アナタのお子さんは大丈夫 記憶がややあいまいですが、かつてこのコーナーは社会福祉法人の相談所でした。私はわんぱく息子に手を焼き、2回ほど児童相談に行きました。担当の元小学校の校長先生は「アナタのお子さんは大丈夫です」と言ってくださり、特別なアドバイスはありませんでした。 ですが、その言葉で私の気持ちは落ち着き、ホッとして帰宅したことを覚えています。数年後、元校長先生にお礼をと思いましたら、相談所はすでに閉鎖。社会福祉法人に問い合わせたら、その方は亡くなられたとのことでした。 その後、子育ては山あり谷ありでしたが、今でも時々思い出します。男の子は、母親に理解できないことが多い「未知の生命体」ですね。今、息子たちは「チョッピリ親思い」の大人になりました。(イラストレーター)