火曜日, 10月 13, 2026
ホーム暮らし「支える人が守られる環境を」児童相談所元職員 飯島章太さん講演会 21日 土浦

「支える人が守られる環境を」児童相談所元職員 飯島章太さん講演会 21日 土浦

「誰かを支えたいと願う人こそ、大切にされる職場であってほしい」—。千葉県の児童相談所・一時保護所で勤務していた元職員の飯島章太さん(32)はこう訴える。

飯島さんは、過酷な労働環境で体調を崩し退職を余儀なくされたとして、千葉県に未払い賃金や慰謝料の支払いを求めて提訴している。21日、土浦市川口の古書店「生存書房」で、飯島さんの講演会「労働としてのケアを考える~千葉児童相談所裁判が問うこと」(茨城不安定労働組合主催)が開かれる。「心身が守られない職場環境のしわ寄せが、本来守られるべき子どもたちに及んでいる」と語る。

精神疾患の長期療養 3倍

飯島さんが、千葉県 市川児童相談所の一時保護所で児童指導員として勤務を始めたのは2019年4月。虐待などで家庭に居られなくなった子どもを保護し、生活支援や自立に向けたサポートを行う役割だった。現場では、定員の倍となる約40人が入所し、多い日は一人で20人の子どもを見なければならなかった。

職員不足の中、休憩はほとんど取れなかった。午前8時半から午後5時15分までの日勤では、学習支援、食事や掃除のサポート、レクリエーションなどに対応した。精神的に不安定な子どもも多く、けんかや事故など不意のトラブルにも注意を払わなければならない。不慣れな職場で十分な研修もないまま、先輩の仕事を「見よう見まね」で覚えていった。残業も頻繁で、行動観察記録や学習プリントの確認などの事務作業を終える頃には、午後8時を過ぎることも多かった。

月に4~6回の宿直勤務は、2人の職員で40人を担当した。約21時間勤務の上、残業もあった。子どもたちの就寝後は、翌日の会議や行事の準備、子ども一人ずつの記録作成に追われた。緊急一時保護の受け入れや体調不良の子どもへの対応で、仮眠時間は廊下に布団を敷いて待機し、「横になれても眠れたことはほとんどなかった」と振り返る。

こうした勤務の中で飯島さんはうつ病を発症。休職と復職を繰り返し、2021年11月に退職することになる。翌22年7月、千葉県を相手取り総額1200万円の損害賠償を求め千葉地裁に訴訟を起こした。

「自分の経験を個人的な問題で終わらせたくなかった」と飯島さんは話す。千葉県では2020年度、児童相談所の専門職員の精神疾患による長期療養取得率は、他の県職員の3倍以上にのぼり、その約半数が20代だった。体調を崩したのは、決して飯島さん個人の問題ではなかった。

子どもを管理する葛藤

勤務する中で飯島さんが最もつらかったのは、「子どもを支えたい」という思いで選んだ職場で、いつしか子どもを「管理する側」に回ってしまったことだった。飯島さんは、大学2年から6年以上、子どもの電話相談ボランティアを続けていた。修士論文のテーマにもしたこの経験を生かし、「子どもの側に立ち、丁寧に話を聞き、支えになれる仕事」として選んだのが児童相談所だった。

しかし実際の現場では、思い描いた仕事はできなかった。子どもたちは多数の細かいルールに縛られていたからだ。ティッシュ1枚を使うにも職員の許可が必要とされ、起床時間まで布団から出てはならず、食事は完食が原則で、残すには許可と謝罪が必要とされた。根拠があいまいな規則に従わないと、強く叱責される子どももいた。集団生活を送る上で規律は必要とはいえ、「刑務所みたい」とつぶやく子どもを目の当たりにし、「家庭で傷ついた子どもを、さらに傷つけてしまっているのではないか」と葛藤した。しかし激務の中で、抱いた違和感はまひしていったという。

「本当は一人ひとりの話を丁寧に聞き、その子の背景を理解しながら支援につなげたかった。学生時代にしていた電話相談の延長線のような仕事がしたかったんだと思う」と飯島さん。学生時代に積み重ねてきた経験が無価値になっていくことに追い詰められていく。ふと我に返った時、自分を信じられなくなる恐怖に襲われた。そして、心身は限界を迎えた。

応援してくれる人は必ずいる

訴訟では12人の弁護士が弁護団「じそう弁護団ちば」を結成し飯島さんを支えている。千葉地裁は、飯島さんが、人員不足や多忙により十分な研修がないまま現場に配属されたこと、休憩や仮眠時間にも作業があったことなどが「安全配慮義務違反」にあたると認め、県に50万円の支払いを命じた。県は即日控訴し、東京高裁での控訴審は10月9日に結審。現在、和解協議が進められている。

地裁での勝訴を伝える飯島さん(右)=3月26日千葉地裁前

飯島さんは「紆余曲折の中でも、今こうして生きてこられたのは、多くの人の支えがあったから」と語る。一方で、「児童相談所に対して世間からは厳しい声も多い。職場では、社会に味方がいるのかと不安になる職員もいた。でも裁判を通じて、応援してくれる人は必ずいると実感できた」と振り返る。

今回の講演会に向けて「今も不安を抱えながら現場で働く職員はたくさんいる中で、120%の力で働く職員に『頑張って』とは言えないが、こういう仕事を選び、子どもたちのために働く人がいることを多くの人に知ってほしい。社会の中で、児童相談所が抱える問題に関心が広がり、職場環境が改善されることで職員が安心して働けるようになれば、それが何より子どものためにつながる」と語る。(柴田大輔)

◆飯島章太さんの講演会「労働としてのケアを考える~千葉児童相談所裁判が問うこと」は21日(日)午後2時から、土浦市川口2-2-12、古書店「生存書房」で開催。参加費無料。参加申し込みは専用サイト、またはメールibarakifuantei@gmail.com(茨城不安定労働組合)、電話050-1808-8525(生存書房)へ。

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