【コラム・先﨑千尋】NHKテレビの朝ドラ「あんぱん」を見ている。モデルは「アンパンマン」の原作者やなせたかしとその妻 暢(のぶ)。子どもたちに圧倒的な人気の漫画「アンパンマン」が誕生するまでを描いている。2人の出会いは、史実では戦後「高知新聞」に入社した時だが、ドラマでは幼なじみになっているなど、違いはある。しかし、たかしの軍隊での生活や戦中・戦後の民衆の暮らしなどが丁寧に描かれ、興味深く見ている。結末がどうなるのかが楽しみだ。
私は7月4日、東京で開かれた農協協会主催の農協人文化賞表彰式の際、やなせたかしの下で働いていた梯(かけはし)久美子さんの講演を聞いた。同賞は農協の発展に貢献した「隠れた功績者」に贈られる。以下は講演記録から。
梯さんは最近、『やなせたかしの生涯 アンパンマンとぼく』(文春文庫)を出版し、やなせの一生を振り返っている。講演では、自身とやなせたかしとの出会いから話し始めた。
梯さんは中学生の時、やなせの詩集『愛する歌』に感動して詩を書き始めた。大学生になると、投稿した詩が、やなせが編集長を務める『詩とメルヘン』に掲載される。卒業後は同誌を発行するサンリオに入社し、1年後に同誌編集部に配属され、やなせの下で働くことになった。やなせは「とにかくいい人で、怒る、叱る、大声を出すのを見たことがない」と当時を振り返る。
やなせがアンパンマンを生み出した1960年代末から70年代には、スーパーマン、ウルトラマンをはじめ「武器を持って悪と戦うヒーロー」が活躍し、人気を博していた。「(やなせ)先生はそうしたヒーローにちょっと疑問があった。戦うヒーローへのアンチテーゼとしてアンパンマンが生まれた」と梯さんは語った。
食べ物を分けてあげる正義
やなせは1941年に徴兵され、44年には台湾の向かいの福州に上陸し、駐屯。その後上海に移動したが、食料不足から兵士たちはどんどん痩せ、命を落とす者もあった。
戦前に「正義」と考えてきたものが戦後に逆転した。「この世の中に正義はないのか。本当の正義ってなんだろう。ずっと考え続け、やなせがたどり着いたのが『目の前におなかがすいている人がいたら、自分の食べ物を半分わけてあげる。それが最低限の正義ではないか』ということだった」。武器で敵と戦うのではなく、食べ物を分け与える正義というやなせの考えは、長い時を経て熟成し、アンパンマンに結実する。
梯さんは最後に「アンパンマンは1972年にでき、88年にアニメになって、それからずっと子供たちの人気が途切れなかった。その理由は、食といのちの関係、人間の善意。それが子供たちに伝わるからだと思う。戦争は人を殺すことだが、食べ物を分け与えることはいのちを生かすこと、いのちを応援することだ」と話し、アンパンマンが伝える「食」と「いのち」の尊さを私たちに問いかけた。(元瓜連町長)