【コラム・原田博夫】今回は、コラム28(2024年5月23日掲載)で触れたアダム・スミス『国富論』購読の続きになる。講読会も半ばに差し掛かり、今年1月には第4編「経済政策の考え方」第6章「通商条約」第7章「植民地」に達した。
私の認識では、スミスは植民地支配を前提にした重商主義の経済政策に批判的で、当時イギリスの植民地だったアメリカの独立を(諸般の理由から)支持していた、というものだった。再読してみると、この認識自体には誤りはないのだが、当時の植民地がヨーロッパ諸国とどのような経緯・関係にあったかは、実に多様だったことが分かる。
非ヨーロッパを植民地化していた先発のベネツィア・スペイン・ポルトガルと、後発のフランス・イギリス・オランダなどは、その狙いと手法が異なり、ひとくくりに宗主国と植民地の関係性では総括できないことが明らかである。
いずれにせよ、当時の植民地政策の展開を博識・適格に描写しているスミスの筆致に感服しながら読み進めると、第4編第7章第1節「新植民地建設の動機」で、ジェノバの航海者コロンブスの西回りによるアジア航海の大胆な計画(1492年)についての言及に、はたと膝を打った。
邪馬台国は九州説に一理
「ヨーロッパとアジア諸国の位置関係・距離については、当時はきわめて不正確だった。アジアまで旅行したヨーロッパ人は少なく、距離を誇張して伝えていた。おそらく無知のためもあり、測定する方法もなかったので、確かにきわめて遠い距離が無限に遠いと思えたのだろう」
「あるいは、ヨーロッパから極端に遠い地域を旅した冒険を飾り立てるために、距離を誇張したのかもしれない。東回りの距離がそれほど遠いならば、西回りの航路は短いはずだとコロンブスは考え、最短で確実な航路をとれば成功の可能性が高いと主張し、カスティーリャのイサベラ女王を説得した」(太字は筆者)というのが、スミスの見立てである。
これはまさしく、3世紀後半の(普の陳寿が記した)歴史書『三国志』の一部である、魏志倭人伝における邪馬台国の推定地論争での、距離をとる(畿内説)か、方角をとる(九州説)かの錯綜(さくそう)を物語っていないだろうか。記述のままとすれば、邪馬台国は太平洋上に位置する。その後の大和朝廷への連続性を踏まえれば畿内説になるが、考古資料の数的優位などでは九州説も捨てがたい。
私自身はこの分野の専門家でもないので、どちらの説にくみするものではないが、15世紀頃のヨーロッパの冒険家たちの粉飾された記録を冷静に読み解くスミスの指摘にならえば、九州説には一理があるのではないか。(専修大学名誉教授)