【コラム・原田博夫】先週末、経済学の祖アダム・スミスの「国富論」(初版は1776年、1789年の第5版まで本人が改定)を1年かけて全10回で読み直す会がスタートした。主宰者・講師役は、私と同年代の数理経済学者でもある丸山徹・慶應義塾大学名誉教授である。
私も学生時代、翻訳本の冒頭(第1編の前半数章)の分業論と(私の専門分野・財政学を扱っている)第5編「主権者または国家の収入」には目を通したものの、全体は読破しておらず、先行者の解説本で理解したつもりになっていたに過ぎない。この期に及んでの再読に内心忸怩(じくじ)たるものを感じながらのチャレンジである。
今回は、手元に原書(ランダムハウス社から1937年に刊行されたモダン・ライブラリ版を丸善が1940年に刊行)も置いて、適宜参照することにした。この原書は、父(1920年生)が戦前に入手し、没(2010年)後も処分していなかったものを、改めて紐(ひも)解いた次第である。
スミスの翻訳書(各種あるが、たとえば1950年のキャナン版による大内兵衛・松川七郎訳、全2巻、岩波書店、1969年)に目を通して、改めて驚いたのが、先人の翻訳の丁寧かつ誠実な点である。
とはいえ、翻訳ではどうしても行き届かない箇所が出る。たとえば「国富論」第1篇第7章に、「有効需要」が出てくる。これはケインズも「雇用、利子および貨幣の一般理論」(1936年)のマクロ経済分析で重要な概念として提示しているが、そもそも、スミスがこの用語を用いていたことは、初読の時点では気づかなかった。
そこで改めて原著に当たってみると、スミスはeffectual demandと述べているのに対して、ケインズはeffective demandである。両者の意味は異なるのだが(それについてはここでは深入りしない)、訳語としては両者とも「有効需要」である。
外来と伝統の対立・席巻・断絶
そもそも、この確認がきっかけで今回、原著に(全部ではないにしても)当たることにした次第である。それ以降、翻訳と原著の対照を、適宜織り交ぜている。そこで気づいたのは、原著の英文が結構読めるのである。これは何も、私の英語読解力を自慢するために言っているのではない。単純に、18世紀の英語が21世紀の外国人でも相当程度に理解できることに驚いているのである。
日本に当てはめると、どうだろうか。スミスと同時代であれば、「古事記伝」は本居宣長が1767年に着手し98年頃に完成させた、と言われている。でも私は、これを読破することはおろか、江戸時代中期の他の書籍(いわゆる古文)を手に取ることすら、憚(はばか)ってしまう。ましてや、解説ナシで読破できる自信はない。
日本文化におけるこうした外来と伝統の対立・席巻・断絶は、奈良・平安時代に始まり、明治期(19世紀末)・昭和20年代(20世紀中葉)にも生じた。
それぞれの民族・国家にとって、文化の核心部分は相当期間、意識的ないし無意識的に持続される。とりわけ、言葉(話し言葉・書き言葉)・文字(表記法)の連続性と断絶は、伝統文化に固有性・強靭(きょうじん)さをもたらすと同時に、多様性や豊饒(ほうじょう)さをもたらしてきた。
近代における言語表記法の変動では、朝鮮半島やベトナムでの漢字文化からの断絶に比べると、日本の変化はむしろ融通無碍(むげ)に近いが、それでも、200数十年前の自国の書物を解説書なしで読破できないのは、当時の文教政策の結末として捉えるべきではないか。
現状の言語的断絶は、歴史・伝統を踏みにじって突き進んだ近代日本の決算報告書のような気がする。(専修大学名誉教授)