【PR】電子顕微鏡などの理科学計測機器メーカー、日本電子(JEOL、本社東京都昭島市、大井泉社長)が昨年、創立75周年を迎えた。同社の創立メンバーが1947年に初めて開発に成功し商品化したのが電子顕微鏡「DA-1」だ。本社の開発館には貴重な1台が鎮座している。開発館のDA-1は1975年11月に茨城大学から譲り受けた。それまでどのような歴史をたどってきたのだろうか。今回、経緯の一部が明らかになった。
DA-1 茨城大学へ
茨城大学にDA-1が搬入されたのは1951年のこと。当時のことを茨城大学工学部同窓会 多賀工業会の稲見隆 事務長(2023年取材当時)に確認してもらったが、詳細は残されていなかった。

ではどのような経緯で茨城大学に設置されたのだろうか。取材班はDA-1を知っているという同大工学部の浦尾亮一 名誉教授(86歳、2023年取材当時)からお話しを伺うことができた。DA-1が設置された1951年にはまだ茨城大学に着任されていないので、当時の様子は周囲から聞いた話も含まれている。

「金属材料の研究をしていた千早正氏を茨城大学工学部に迎えるにあたり、1951年当時の工学部長、都崎雅之助 教授(後に第5代同大学長)が、先端機器である電子顕微鏡が設置されていないことは研究遂行上、問題であると言って茂原に連絡をし、DA-1を調達したと聞いています」(浦尾氏)。茂原とは、千葉県茂原にあった日本電子の前身にあたる電子科学研究所のことだろう。
特別な電子顕微鏡
茨城大学に設置されたDA-1を使っていたのはもっぱら千早氏だった。だが浦尾氏が着任したころにはほとんど使われなくなっていた。教授となっていた千早氏は工学部長も務めるようになり、DA-1のある部屋や実験室から遠く離れた学部長室で執務することが多くなっていたという事情もあるのだろう。

浦尾氏が着任すると、待っていたのは忙しくなった千早教授の代わりに実験室の面倒を見る仕事だった。そこで数回だけDA-1を操作したことがあったという。利用回数が少ない理由は「もっぱら千早先生が使う装置だ」という遠慮と、すでに”古い部類”になってしまった装置の不安定さが要因のようだ。安定稼働させるために電源として蓄電池が用意されていて、日中から午後11時近くまで充電する。その後、観察を始めるのだが、稼働できたのは2時間程度だったという。
千早教授は時々、学部長室を出て実験室に来ることがあった。そして浦尾氏らと話をしてまた学部長室に戻っていく。話の内容は実験の進ちょくだったり雑談だったりで、DA-1の話をすることもあった。千早教授は茨城大学の装置は極めて初期に作られた1台という話をしていたという。

DA-1 発見

1975年7月10日、一人の営業担当者が茨城大学を訪れた。日本電子に入社して2年目の渡邊愼一(現・顧問)である。
当時茨城大学の工学部は日本電子のユーザーではなかった。アウェイを覚悟で訪問したのだが、思いのほか歓迎された。「いいものがある」と倉庫に案内されると、そこには話に聞いたことのあった古い電子顕微鏡が保管されていた。日本電子の社員が現存するDA-1を見つけた瞬間である。
ただ、入社して間もない渡邊にとっては本物かも区別がつかない代物であった。そこでDA-1の設計者の一人である芦沼寛一に後日、確認してもらった。芦沼は感慨もひとしおだったようだ。なにせ28年前に苦労して完成させたDA-1の姿がそこにあったのだから。
それから誰からともなく「茨城大のDA-1を日本電子に戻せないか」という声が上がるまで時間はかからなかった。
DA-1 日本電子へ
DA-1を譲り受ける話し合いのため、渡邊らは1975年9月17日に茨城大学を再訪する。そして同年10月20日。引き渡しが行われ、DA-1は本社開発館へ設置された。
以来、今日までこのDA-1は、芦沼と同じく設計者の一人である伊藤一夫による「設計ノート」と、日本電子の創業者である風戸健二がこの顕微鏡を作るきっかけとなった黒岩大助著「電子顕微鏡」とともに開発館ショーケースの中に保管され、世界中から訪れるユーザーを出迎えている。
「透過型電子顕微鏡 DA-1とその設計ノート」は、2010年秋に国立科学博物館より「重要科学技術史. 資料(未来技術遺産)」に登録された。また2012年秋には社団法人日本分析機器工業会(JAIMA)と一般社団法人日本科学機器協会(JSIA)が合同で創設した「分析機器・科学機器遺産認定」にも選定されている。
極微の世界と科学の発展

以下は風戸の言葉である。
「今や日本は、アメリカとともに高級理科学機器の世界の大国となって、成果の出るのはこれからであろうが、日本の青年を信頼し、青年に頼って立国の大業の成ることを期して待とうではないか!彼らに、我々の遺伝子が伝えられていることを信じて!」
当時まだ見ぬ未来の日本電子社員に向けて発信されたであろうこの一文は色あせることなく受け継がれ、日本電子は今日も世界初・世界最高技術への挑戦を続けている。