【コラム・山口絹記】最近、ふと「今の仕事は、こどもの頃からの夢だったんですか?」と聞かれたことがあった。不意の質問だったので、「ええ、まぁ…はい」と答えてしまった。「よかったですね、やりがいがありますね」と言われ、なんとなく、もやもやとした気持ちになった。
私はこの「夢」ということばが好きではない。それが、なんらかの「職業」を指しているならなおさらだ。この「夢」ということばはカタチを変えて日常のそこかしこに潜んでいる。それは、「なりたい自分」とか、「自己実現」とか、「志望」とかいうことばであり、人生のそこかしこで、ふと目の前に現れては人の心をかき乱す。
一度ことばにして「夢」というものを自分の中で定義してしまえば、それはいとも簡単に自分の心の中に根をはり、場合によっては自らを縛る呪いのようなものになっていく。安直で雑な呪いだ。
実際のところ、ここで言う「夢」というのは、一時の状態でしかなく、その状態に行きつくまでは、頭の中のことばでしかない。そして、その「夢」がかなった状態になったとしても、当然のことながら続きがある。仕事であれば辞めるという選択肢があり、自分の意思とは関係なく辞めざるを得ないときがあり、そして、死ぬまで続けることができる仕事というのは限られているのだ。
どうなりたいか
一度「夢」という状態がかなったとして、その状態をやめるということは、「夢」を諦めるということにはなるまいか? かなった「夢」という状態が、いつかはしがみつく対象になることはないのだろうか? これはあまり健全な状態であるとは言えないだろう。
実のところ、これは「夢」と言うものの定義設定の問題であると、私は思うのだ。「夢」というものを一時の状態に設定しまうのは安易ではあるが、だからこそ何かがおかしくなってしまう。
大切なのは、何になりたいか、ではなく、「どうなりたいか」なのだから。「どうなりたいか」の途中に「何になりたいか」があり、何になるかについては、常に選択肢があり続けるのが健全だ。そして、どうなりたいか、という自分は、自ずとその時々の自分に寄り添って変わっていくだろう。
難しい話ではない。最初は、「優しくありたい」なんてことでよいのだ。いっそ単純なほうがよい。他人と同じでよい。小さい時は友達にやさしくあればよい。孤独な時は自分に優しくあればよい。大切な人ができたなら、その人に優しくあればよいではないか。単純だが、十分に難しいことでもある。
そして、一生をかけて、その優しさを自分なりに研ぎ澄ませていく。そうすれば、なぜ自分が「優しくありたい」と思ったのか、わかる日が来るかもしれない。私はそう考えている。(言語研究者)