【コラム・川端舞】今、私は怒っている。昔から、嫌なことがあると周りではなく自分を責めていた私が、今自分でも驚くほど、ある事柄に怒っている。自分の尊厳を傷つけられたことに対する怒りだ。そして、そんな自分を頼もしく思う。怒りでしか守れないものがあるから。
怒りを表面に出すと、たいてい「冷静になれ」「そんな言い方では伝わらない」とたしなめられる。私自身、感情的に怒るより、きちんと相手の立場を考えて、論理的に話し合う方が賢い問題解決の方法だと信じていた。でも、傷つけられている最中に、その痛みを客観的に説明するなど無理だった。
これ以上自分が傷つかないように、「私は今、痛いんだ!」と必死に叫ぶしかなかった。そうすることでさらに批判の対象になることは分かっていても、自分を守るには大声で叫ぶしかなかった。「今は自分の尊厳を守るために怒るべき時だ」と、直感で思ったのかもしれない。
人間の尊厳のために怒れる社会に
障害者文化論を研究する荒井裕樹さんは、対談集「どうして、もっと怒らないの? ―生きづらい『いま』を生き延びる術は障害者運動が教えてくれる」(現代書館)の中で、長年、障害者運動に関わってきた人たちと、かつての障害者運動の根幹にあった「生きづらさへの怒り」について語り合っている。
その冒頭で、荒井さんは「1970年代の日本の障害者運動には、自分の存在を不当に低く抑え込み、生きる幅を狭めようとする社会の常識や価値観そのものをぶち壊したいという衝動が煮えたぎっていた」と語っている。
本のタイトル「どうして、もっと怒らないの?」は、1970年代から80年代にかけて、社会に多大な影響を与えた障害当事者による運動団体「青い芝の会 神奈川県連合会」の元会長である故・横田弘さんが晩年によく言っていた言葉だ。
生前、実際に横田さん本人からその言葉をかけられたことのある荒井さんは、「その問いかけは『人間の尊厳が目減りしていくことへの危機感が足りない』と諭していたのでは」と推察する。
昨年末、タイトルに吸い寄せられるように、この本を手に取った。それまでどんなに納得いかないことでも、分かったふりをし、「おかしい」と声を上げられなかった私を、叱咤(しった)激励してくれているように感じた。そして、初めて「私は今、痛いんだ!」と叫べたとき、自分を前より少し大切にできた気がした。
私はこれからも、自分や大切な人の尊厳が踏みにじられたときは、真っ当に怒れる人でありたい。そして、人間の尊厳を守るための怒りを押さえつけるのではなく、ともに怒り、ともに闘う社会であってほしい。(障害当事者)