水曜日, 11月 4, 2026
ホームつくば38度線へ 母に手を引かれ逃避行【語り継ぐ 戦後78年】1

38度線へ 母に手を引かれ逃避行【語り継ぐ 戦後78年】1

間もなく戦後78年の終戦の日を迎える。戦争体験者が少なくなる中、戦争とは何だったのかを次世代に語り継ぐことが年々難しくなっている。戦争体験者4人に話を聞いた。

つくば市 花房順子さん

つくば市の花房順子さん(83)は、1910年から45年まで日本が植民地支配していた朝鮮半島で生まれた。広島県出身の父親は警察官。中国国境に近い朝鮮北部には当時、日本の駐在所があちこちにあり、父親は国境の駐在所で警備に当たった。終戦の時は6歳。「終戦の日まで怖い目に遭ったことはなかった」と振り返る。

1945年8月15日、日本が無条件降伏し日本軍が撤退すると、入れ替わって北にソ連軍、南に米軍が進駐し、38度線でにらみ合った。

順子さんの暮らしは終戦の日を境に一変する。日本が降伏した途端、日本人に対する周囲の朝鮮人の反感を幼心に感じた。両親はばたばたと荷物をまとめ、父親は家族を引き連れて駅に向かった。しかしすぐにソ連兵が入ってきて、駅に集まっていた多くの日本人が逃げ惑った。父親は駅まで行かず、途中で、懇意にしていた朝鮮人に家族をかくまってもらった。

8月23日、スターリンが、日本軍捕虜をソ連の収容所に移送し強制労働させるというシベリア抑留の命令を出すと、朝鮮北部にいた日本人男性は全員集められた。

順子さんの父親も街の広場に集められた。最初、順子さんら家族は父親にくっついて広場で過ごした。明日、連れていかれることが決まり、母親はお酒が好きな父親のため、別れに酒を持たせようとしたが、手に入れることができず、代わりにハチミツを水に溶かした飲み物を順子さんの水筒に入れて父親に持たせた。それが父親との最後の別れになった。

順子さんは3人きょうだいの長女で、4歳の妹と2歳の弟がいた。母親は3人の幼子を連れて、しばらく朝鮮人の家を転々とした。そのうちかくまってもらうこともできなくなり、夜は近くの山に入って野宿した。街中では、日本人女性がソ連兵に強姦されたり、殺されたという話を聞いた。

当時、米軍が進駐した朝鮮半島南部にいた日本人は、米軍が出した船で次々に日本に送り返された。一方、ソ連が進駐した北部にいた日本人はそのまま留め置かれた。

しばらくして順子さんらは、中国との国境に近い、日本兵が駐屯していた兵舎に集められ収容された。収容所は女性と子どもばかりだった。国境近くは冬には氷点下30度にも40度にもなったが、暖をとる薪(まき)を買うお金もなかった。どうやって過ごしたか、よく覚えてないが、1日1回くらいコーリャン(キビ)を炊いたおかゆが配られた。やがて収容所で、はしかが流行し、2歳の弟が息を引き取った。

これ以上ここにいては全員死ぬしかないと、リーダー格の日本人が、収容所を出て日本に帰る計画を立てた。母親も計画に加わり、雪が解け始めた頃、母親は順子さんと妹を連れて収容所を出発した。何かあったら兵隊に渡して見逃してもらえるよう、金目のものも集めた。

200人くらいがグループに分かれて38度線を目指した。街の通りはソ連兵が警備しているため、見つからないよう、昼間は山中に身を潜め、夜になると山の中を歩いた。早く歩ける者はどんどん進んだため、列はばらばらになり、幼い子供を連れた女性はだんだん取り残された。

6歳の順子さんは、4歳の妹をおぶった母親に手を引かれて歩いた。赤ん坊を連れた女性も多かったが、ソ連兵に見つからないよう、赤ん坊の口をふさいだ母親もいたと聞いた。

幾晩も幾晩も山の中を歩いて、38度線に近づいた頃は、グループは5~6人だけになっていた。夜が明けたころ、米軍が進駐する南の駅のそばまでたどり着いた。すでに明るくなっていたが、「すぐそこだから歩こう」と、歩き出した時、ソ連兵に見つかり、銃を持った兵隊がやってきた。順子さんは「殺される、これでおしまいになる」と覚悟したことを覚えている。

しかしソ連兵は行かせてくれ、順子さんは無事、38度線を超えることができた。後で知ったことだが、その時ソ連兵は「女を1人残せ」と言ったのだという。グループには大人の女性が3人いて、順子さんの母親ともう1人は子連れだった。途中から付いてきてグループに加わった子どものいない女性が「私が残ります」と言ってくれたのだと聞いた。

南に入ると、米兵が汽車に乗せてくれ、釜山に向かった。釜山ではたくさんの日本人が船を待っていた。翌年の1946年5月の終わり、釜山から船に乗ることができ、長崎県佐世保に上陸。佐世保から広島県呉まで汽車に乗り、それからバスに乗って、さらに長い道を歩いて、広島県のいなかの父親の実家に身を寄せ、父の帰りを待った。

父から何の連絡も無いまま、1年か2年が過ぎたころ、父親と同じ収容所で収容されていたという男性が父親の実家を訪ねてきた。男性は父親と郷里が同じで、収容所を脱走し、翌年、日本に帰ってきたのだという。

男性によると、父親と男性は1945年8月の終わり、シベリアに行く途中で中国・東北部の延吉にあった収容所に集められた。収容所では発疹チフスが蔓延し、父親も感染して、1946年2月4日、チフスで亡くなったのだと話した。男性は、父親が亡くなったのを見届けて収容所を脱走し、途中、中国共産党と国民党の戦闘にも加わったが、そこも脱走したのだと話した。

父親の形見となった水筒

男性は、父親の形見だと言って、ハチミツを入れて渡した順子さんの水筒を持ってきた。高さ17センチの小さな水筒はふたがつぶれたり、底の一部が欠けたりしていたが、順子さんにとってたった一つの父親の形見となった。

父親が亡くなったという報告を聞き、母親は順子さんらを連れて、同じ広島県内の母親の実家に帰った。

成人した順子さんは京都の私立大学の事務職員として勤務し、研究者の夫の転勤を機に1979年、つくばに転居した。

「戦時中、日本では、空襲でひどい目に遭ったり、疎開で子どもたちがひもじい思いをしたが、朝鮮では、怖い目に遭ったことは一度も無く、むしろ日本人は威張っていた。しかし終戦になった途端、しっぺ返しを受け、朝鮮の人からもいじめられたが、ソ連兵はとりわけひどかった」と順子さん。「満州から逃げてきた日本人もたくさん北朝鮮に入ってきたが、ソ連兵に殺され、たくさんの人が亡くなった」とも言う。

次の世代に伝えたいこととして「何がなくても戦争を起こしてはいけない」と強調する。「『抑止力をもたなくてはいけない』と言う今の政府のやり方は本当に怖い。抑止力はきりがない。それよりも仲良くする方法をなぜ考えないのか、対立するのではなく、話し合う機会をつくるべき」と語る。(鈴木宏子)

続く

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