火曜日, 1月 13, 2026
ホーム土浦1938年に八尺の浸水 土浦市田中の自然石に刻まれる【自然災害伝承碑の現在】㊦ 

1938年に八尺の浸水 土浦市田中の自然石に刻まれる【自然災害伝承碑の現在】㊦ 

土浦(市)の水害は江戸時代に街の形ができた頃から桜川の氾濫や霞ケ浦からの遡上で幾度となく浸水の被害が出ている。その抜本的な洪水対策に従事した政治家・色川三郎兵衛氏の活動を閲覧する予定だったが、土浦市立博物館は、本年7月から大規模改修で2年後の1月まで休館となっていた。

常磐線軌道を防災インフラとして整備

色川氏の業績は、現在の常磐線軌道建設時に盛土構造物を霞ケ浦寄りに築造させ、堤防の役割を与えたことが有名だ。これは東日本大震災時、宮城県の仙台東部道路が同じ機能を果たし、ある程度津波を防いだ。常磐線軌道ははるか明治時代に防災インフラとして整備されていた。色川氏はさらに、川口川河口付近での閘門設置にも尽力した。

川口川そのものは埋め立てられ消失しているが、旧川口川閘門鉄扉と排水ポンプは残されており、色川氏の業績を讃えた記念碑と像も建立されている。ただ、構造物自体は伝承碑の対象外であり、色川氏の記念碑にも業績を讃える文言しか刻まれていないため、治水の記録を捕捉銘板などで追加しなければ伝承碑として登録できる確率は低い。

色川三郎兵衛氏の像

防災サポーターが自転車で走り回り確認

これは意外な展開になった。本当に土浦市内にも水害伝承を記した石碑は皆無なのだろうか。つくば市同様、土浦市の防災危機管理課に足を向けた。

「現時点(8月17日)では自然災害伝承碑に登録されていませんが、1938(昭和13)年水害の記録を彫り込んだ自然石が存在します。この石碑は以前、市立博物館が災害の記憶をテーマとした企画展を催した際、水害の歴史事例として紹介したことがあります」

1938年6月末から7月にかけての台風水害は、真鍋から下高津までの桜川低地が冠水し、土浦町で約4800戸、真鍋町で1000 戸以上の床上浸水を生じた。氾濫した水の深さは8尺(約2.4m)に及んだという。

「地域防災サポーターの方が、市内を自転車で探し回り、この石碑を確認してくれました。市としては伝承碑に登録できる十分な条件を備えていると考えます」

それでも確認された石碑はこの一例だけだという。

「自然災害伝承碑そのものが、これから広く認知されていくのでしょう。市民の関心が高まり情報のやり取りが活発になれば、今は埋もれている災害の記録が2例目、3例目とよみがえっていくのではないでしょうか」

防災危機管理課でレクチャーしていただいた石碑を探して、中心市街地からは少し離れた神社にたどり着く。昔は一面の田園地帯だった。周辺の新市街地は80年代以降に形成され、社だけが長い歴史をたたえている。拝殿横の樹木を支えるように並べられた自然石の一つに、判読しにくいながらも「十三年」「大洪水」の文字が刻まれていた。

登録で歴史を再認識

この探訪は、国土地理院の地図と測量の科学館内で目にした自然災害伝承碑の紹介コーナーがきっかけだ。展示パネルのひとつに、つくば周辺の伝承碑4カ所が掲げられていたが、土浦市にもつくば市にも伝承碑の登録がないという事実に、驚きを禁じ得なかったのである。

そんな馬鹿な、と国土地理院に伝承碑の成り立ちを聞くところからスタートした。印象としては、災害伝承の多くは口伝えと文献に委ねられている。それらの維持保存は重要な意義を持つが、紙媒体もデジタル化した情報も、おそらく石碑のような堅牢さに比べれば、長期間にわたる伝承には限界がある。

そう言い切ってしまうと、地理院が進める伝承碑の情報収集・登録・ウェブ上での利活用に矛盾を与えてしまうが、各地の伝承碑がどこにあり、何を伝えているかのガイドとして地域の耳目が触れやすくしていくことに新たな意義が生まれている。

土浦市内の大洪水の碑は、近く自然災害伝承碑として登録されることだろう。大事なことは、登録後に改めて人々がその歴史を再確認し、災害に対して油断のない暮らしを営むことにある。(鴨志田隆之)

終わり

➡NEWSつくばが取材活動を継続するためには皆様のご支援が必要です。NEWSつくばの賛助会員になって活動を支援してください。詳しくはこちら

2 コメント

2 Comments
フィードバック
すべてのコメントを見る
スポンサー
一誠商事
tlc
sekisho




spot_img

最近のコメント

最新記事

まさかの「第5回富士山景クラシック展」《続・平熱日記》188

【コラム・斉藤裕之】昨年秋、「第5回富士山景クラシック」展をやるぞ!と、突然メールが入った。この画展、上野谷中の居酒屋でフランスから帰国したばかりの私が、同級生を前に「みんなで富士山を描こう!」なんてノリで言っちゃったのがきっかけ。まさかギャラリーで展示までして、それも足掛け30年で5回目にもなろうとは…。 なんで富士山なんて言っちゃったのか。例えば、最近では愛犬パクと山口から帰って来る時の新東名。突然、目の前にでっかい富士山が現れる。あまりの雄大さに呆気にとられてしまう。憧れの女性が突然目の前に現れたのと同じで、ただアタフタとその場を繕うしかない。 葛飾北斎の富嶽三十六景。誰もが知る富士山を描いた名作だが、あれは富士山を憧れの女性に例えるなら、遠巻きにしていろんな所からのぞき見している。つまりおっかけ。大体、富士山はどこから見てもあの形。まさに二つとない不二の登録商標で、誰が見ても富士山だとわかる。 北斎は、その富士山を大きな波の向こうに、桶(おけ)の輪の向こうに、いろんなところから遠巻きに描いた。その証拠に、正面から堂々と描いた富士は赤面している。 ここ茨城からも富士山は見える。朝、車に乗って仕事に行く途中、スカイツリーの向こうにきれいな富士山。しかし、それははるか遠く、手の届かない映像のような富士山。でも案外、私にとって富士山は昔から、そしてこれからも、そんな憧れの人でよいのかもしれない。 オジイサンの鼻息は荒い しかし、前回展で一応の区切りを付けたはずの富士山景クラシック展。今回のDMはがきに「第二章」とあったのが気になる。もしかして6度目も…。そういえば、何回目かの時に「次はフィレンツェでドゥモを描こう!」とか「台湾でグループ展だ!」と盛り上がっていたっけ。 フジサンは今も姿を変えずそこにあるが、若者たちはオジサンになり、今やオジイサンと言われても仕方ない年齢になってしまった。しかし、本人たちの鼻息は荒い。以前、ある彫刻家の先輩方がグループ展に「R70」という粋なタイトルを付けていらしたことを思い出した。 北斎は三十六景を描くために、車もない時代に一体どれほどの距離を歩きまわったのか(72~74歳、千葉、東京、神奈川、山梨、静岡、愛知)。一昨年、長野県小布施に、北斎の絵を訪ねた。80歳を過ぎて、山々を超えて信州まで絵を描きに行く、その情熱と馬力に私自身にもムチを入れざるを得ない気分だった。オチをつける気はなかったが、午の年が始まる。 30年前の夏、富士山を描こうと沼津に連れて行った長女。高温多湿の海辺の街からは富士山を見ることはかなわず、漁港で食べた超ビッグなエビフライと同級生の実家である幼稚園のプールで沐浴(もくよく)をしたことはよく覚えている。多分、展示が始まるころには、その長女が3人目を産んでいるはずである。もしかして、丙午の女の子? 今の時代、そのぐらいでちょうどいい。(画家) 第5回富士山景クラシック展:1月19日(月)~31日(土)、GALERIE SOL(東京都中央区新富1-3-11)

親子連れ70人がカヤ刈り 地元の文化財「五角堂」修理の材料に つくば

江戸時代後期につくばで活躍した発明家、飯塚伊賀七(いいづか・いがしち)が建てた「五角堂」のかやぶき屋根を修理する材料にしようと、ススキが自生する近隣の原っぱで12日、カヤ刈りイベントが開催され、地元の親子連れなど小学生から70代まで約70人が、刈り取ったススキを集めて束にするなどの作業を体験した。 伊賀七は当時の谷田部新町村の名主で、からくりの和時計、測量器具、地図、農業機械の自動脱穀機などを発明した。五角堂は伊賀七の生家に建てられた。何のために建てたのか分かってないが、床面が正五角形と当時は建築が難しく、独自の構造で建てられている。1958年に県指定史跡になり、89年に解体修理されたが、かやぶき屋根の傷みがひどくなり、五角堂を管理する同市が昨年、屋根の一部を修理した。残りの部分を、今回刈り取ったススキで修理する予定だ。 カヤ刈りイベントは、石岡市を拠点にかやぶき屋根の保存活動に取り組む市民団体「やさと茅葺き屋根保存会」(萩原寿盈会長)とつくば市教育委員会が共催した。場所はつくばエクスプレス(TX)みどりの駅近くの市立みどりの義務教育学校に隣接する未利用の原っぱの一部約200平方メートルで、市民ボランティアを募って実施した。 学校脇の原っぱにススキが茂っていることを知った市内に住む同保存会事務局の仲村健さん(44)が同校と市教委などに働き掛け、昨年、同保存会が同所でカヤ刈りを実施し、石岡市内のかやぶき屋根を修理する材料にした。その後、地元に住む谷田部地区活性化協議会の牧野秀宣会長(70)から「地元のカヤで五角堂を屋根を修理してはどうか」と提案があり、イベント開催に至ったという。 12日は午前中に同保存会が仮払い機でススキを刈り、午後に親子連れ約70人が刈り取られたススキを拾い集めて、ひもで縛り、束にした。2時間ほどの作業で121束が出来上がった。 刈り取ったカヤは、同保存会の会員が自宅の風通しのよい場所で保存する。さらにワークショップを開催し、屋根で作業しやすいようカヤの長さをそろえて束にする「かやごしらえ」を実施する予定だ。 母親と参加した近くに住む小学3年の戸田結斗さんは「学校でちらしをもらって参加した。カヤの束を積み上げた上に座って楽しかった」と話し、家族で参加した近くの会社員、藤尾友彦さん(42)は「毎日犬の散歩で通るところなので、普段できない経験をしたいと参加した」と語り、長女で小学3年の晴香さんは「ススキを束ねてぎゅっと結ぶのが難しかった」と話していた。 同保存会の仲村さんは「カヤ刈りを通して身近な歴史や文化を知り、それが現在や未来につながるものだということを感じてもらえたらうれしい」と話し、同活性化協議会の牧野会長は「地元のものを地元の材料で修理すると、親しみができる。小学生も参加し、自分たちが取り組んだもので修理できれば地元の歴史にもっと親しみがわくと思う。すごくありがたいし、子供たちがいっぱい参加してくれてよかった」と語っていた。 市文化財課によると、刈り取ったカヤは同保存会に約1年間保存してもらい、2027年度に五角堂の残りのかやぶき屋根の修理を実施する予定という。(鈴木宏子)

招待状に「特別支援学校」初めて記載 つくば市 二十歳の集い

これまでは「市外の中学校など」 11日つくば市竹園、つくばカピオで開かれた同市主催の「二十歳の集い」で、参加対象の新成人にあらかじめ送付される招待状(入場券付き案内状)の出身中学校に今年初めて、「つくば特別支援学校」の学校名が記載された。市内にある市立や県立、私立の18中学校と並んで記載された。市によると、これまで同支援学校出身者は、対象者を限定しない「市外の中学校など」に含まれていたという。今年から学校名を明記した理由について市は、「『特別支援学校の卒業生が参加していいのか分からない』という市民の声に応えた」と説明している。 同市の式典は、出身中学校別に午前と午後に分かれて開催される。つくば特別支援学校の学校名は市のホームページなどにも、午前の部に他の中学校の学校名と並んで記載された。 会場では例年同様、身障者など専用駐車場の設置や筆談対応、車いすの貸し出し、事前連絡を条件とした介助者の式典同行を認めるなどの合理的配慮を実施した。 「ちゃんと存在している」 式典に参加した、つくば特別支援学校卒業生の梅山樂さん(19)の母、恵子さんは、「出身校として学校名が記載されたことで、『ちゃんと存在している』とみんなに認められた気持ちになり、うれしい気持ちになった。子どものころに交流してきた地元中学の同級生が声を掛けてくれ、覚えていてくれたのがとてもうれしかったし、お互いに立派になっていたことにも感動した。これから先、子どもが親から離れて、自分で何かを選び、希望していけるといいと思っている」と話した。 同じく式典に参加した五十嵐心音さん(19)の母親で、会場に付き添った純子さんは「体調を崩した時期もあった中で二十歳を迎えることができ、親としてもひと段落という思いがある。感慨深い」と語った。 根本侑弥さん(19)の父親、隆行さんは「あっという間の20年。何度も入退院を繰り返してきた。よく元気でこの日を迎えてくれた」と笑顔を見せた。母親の希美子さんは、出身校として「つくば特別支援学校」が記載されたことについて「車いすでも式典に参加しやすくなった。自分が通っていた学校名が記載されていなかったとしたら、行きにくさを感じる人もいたかもしれない」とした上で、「市主催の式典に出れられることで、地域の中に障害のある子どもがいるんだと知ってもらえると思うし、子どもの頃に交流していたことを思い出してくれるかもしれない。とても意義あることだと思う」と話した。 五十嵐立青市長は「特別支援学校の卒業生も大切な同じ仲間であり、市民の一人。皆さんと一緒にお祝いできることが大切。前に進んでいくきっかけの日にしたい」とコメントした。 つくば特別支援学校では毎年、市主催の成人式とは別に、卒業生を対象とした「成人を祝う会」を開いている。今年は1月17日に同校で開催し、16人の卒業生が参加する予定だ。(柴田大輔)

映画「倭文-旅するカジの木」を見て《邑から日本を見る》190

【コラム・先﨑千尋】先月7日、東京都練馬区の大東文化会館で国際シンポジウム「旅するカジの木、旅する神々-静御前と倭文(しづり)」が開かれ、その中で北村皆雄監督の映画「倭文-旅するカジの木」が上映され、北村監督の講演などがあり、筑紫舞、大和高田の白拍子舞などが披露された。 倭文ないしは倭文織は古代の織物の名称で、常陸国風土記や万葉集、日本書紀、延喜式などの古典に登場するが、現物が発見されていないので、“幻の織物”と言われている。その素材はコウゾやカジの木などの自然繊維で、神事に使う幣(ぬさ)、手纏(まとい)、鞍(くら)などに使われていたようだ。 私は那珂市静に鎮座している常陸二の宮静神社のすぐ近くに住んでいることもあって、かなり前からその織物に関心を持って、史料も集めてきた。常陸国風土記には「まだ織物がなかった時代に倭文部(しどりべ)という織物の技能集団が静周辺に来住し、倭文を織った」とある。静神社の主祭神は、織物の神様・建葉槌命(たけはつちのみこと)だ。 「衣食住」という言葉 北村監督は映画上映の前に「衣食住という言葉があるが、衣が最初で、食、住と続く。それはなぜなのか。人が生まれてきて最初に産着(うぶぎ)を着ける。布は第二の皮膚と言われ、人間しか着けない大事なものだ。倭文という謎の織物を手掛かりに、衣の持つ呪術性を探ってみたいと考えて映画を製作した。何もないものを作るのは大変なことで、5年もかかった」と話した。 映画は最初に、日本の原始布が残る徳島県旧木頭村を訪ねるところから始まる。ここではカジの木やコウゾで織る太布(たふ)が現在でも織られている。次に、糸を使わない布、タパが登場する。カジの木の樹皮をたたいて伸ばす。撮影隊は、タパを作っているパプアニューギニアに向かい、人類最古に当たる植物繊維の衣服が今でも作られている有り様を伝える。 カジの木の原産地は中国南部から台湾。そこから4000年にわたってフィリピン、インドネシア、オセアニア、日本などに伝わったという。北村さんらは正確を期するために各地でDNA鑑定を行っている。茨城県内にはコウゾはあるが、カジの木はほとんど見かけない。コウゾはカジの木とヒメコウゾの交配から生まれたものだ。 この映画を作るために、国内の4人の織物作家(山口源兵衛、石川文江、西川はるえ、妹尾直子)が帯や幡(はた)、紙布を作る。その苦労する過程が克明に映し出される。 映画の最後は、日立市の大甕倭文(おおみかしず)神社にある宿魂石上(しゅっこんせきじょう)で、神話に出てくる倭文神「建葉槌命(たけはづちのみこと)」(大和朝廷側)がまつろわぬ星の神「香香背男(かがせお)」を、倭文織を使った呪術的な力で圧倒する場面。この場面だけがフィクションである。 冒頭に戻る。今回のシンポジウムのタイトルに「静御前と倭文」とある。静御前が鎌倉鶴岡八幡宮で歌ったという「しずやしず 倭文の環(おだまき) くりかえし 昔を今になすよしもがな」から採ったと思われるが、静御前と倭文の関係について、今後の研究に期待したい。(元瓜連町長)