水曜日, 6月 29, 2022
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写真が好きになる写真 《写真だいすき》8

【コラム・オダギ秀】もう半世紀ほども昔の話だ。1枚の写真に衝撃を受けた。小さな本の表紙の写真だ。野の花に、小さな石仏がほほ笑みかけていた。何てすてきな写真なんだと、ボクはその写真の虜(とりこ)になり、以来半世紀、写真を職業にしながら、野の石仏を撮ることになった。

そのころは、まだ石仏などあまり注目されておらず、その撮影者は作家だったが、野の石仏の魅力を普及させた先駆者だった。

後に、同じ石仏を何度もその作家が撮ったのを見たが、それらの写真には魅力を感じなかった。同じ石仏なのに、他の写真にはほほ笑みがないのだ。そのことから、写真を撮るときの心情と写真技術がいかに大切かをボクは学んだ。

写真屋さんが撮った記念の集合写真に、感銘を受けたこともある。ボク自身は、何の関係もない写真だ。

同窓会だそうだ。10人ほどの年配の男女が、庭に椅子を並べて掛けている。なかに2脚、誰も座っていない椅子が置いてある。参加したくて、でもどうしても来られなかった2人の席だそうだ。素晴らしい写真屋さんの配慮に感銘を受けた。

欠席された方は、自分がいない椅子だけ写った記念写真を、いつまでも大切にするだろう。関係のない者でも、空席の写った写真を見たら、心に残るだろう。その場に存在しない人も撮れるのだと学んだ。

土浦の医者だった 平本のじいさん

住井すゑさんが、牛久でお元気だったころ、住井さんの裏に住んでいた平本じいさんを紹介してくれた。じいさんは写真がすごく好きだから、と。ボクは、平本さんというじいさんは元医師で、それ以外の素性は知らずにいた。

じいさんはボクに、大切そうに写真集を拡げ、「ブラッサイ(ハンガリー出身の写真家)はいいなあ」と何度も何度も何度も言った。その時のじいさんの表情と、ブラッサイが撮った夜のパリの裏街の写真が忘れられない。医者だった平本じいさんは、ブラッサイのモノクロ写真に、何を見ていたのだろうか。自分の人生に、何か共鳴するものがあったのかも知れない。

そのころ、若いアンチャンのボクは、ブラッサイなんて知らず、適当に相づちを打つだけだったが、じいさんの中のロマンは、人生を振り返る大切なものだったのだろうか。平本じいさんは、自分がやっていた医院を土浦市に寄贈し(今の土浦一中地区公民館)、新治協同病院(今の土浦協同病院)の2代目の院長だったと、ずいぶん後になって知った。

心に残っているだけで価値があり、大切な写真が、たいていの人にある。1枚の写真が、半世紀もの人生を動かすこともあれば、写真を見ることで人生のその時の心情がよみがえり、あらたな活力になることもあろう。どんなに古くなってはいても、写真によってよみがえるのは、断片ではあるが、人生そのものなのではなかろうか。(写真家、日本写真家協会会員、土浦写真家協会長)

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