木曜日, 4月 9, 2026
ホームつくばエスカレーター取り止め つくばセンタービル 改修計画を大幅見直し

エスカレーター取り止め つくばセンタービル 改修計画を大幅見直し

専門家や市民団体から見直しを求める要望が出ていた、つくば市によるつくばセンタービル(同市吾妻)の改修計画について、市は17日開かれた市議会中心市街地まちづくり調査特別委員会(ヘイズ・ジョン委員長)で、エスカレーターの設置を取り止めるなど当初の改修計画を大幅に見直すことを明らかにした。

建築デザイン残す形に

見直し計画は、エスカレーターの設置を取り止めるほか、センター広場を囲む外壁、ノバホールと小ホールの間の1階大通路、ノバホール西側の外階段をいずれも取り壊さず、現在の建築デザインをそのまま残す。センター広場の床にテントを固定する床穴を開ける計画も取り止める。

今回の見直しについて五十嵐立青市長は「市民、(市議会)特別委員会、利用者からの意見を反映し、意匠にさらなる配慮をした」などと話した。

つくばセンタービルは、プリツカー賞を受賞した磯崎新さんが設計したポストモダン建築の代表作だと世界的に評価されていることから、建築意匠が専門の筑波大学、鵜沢隆名誉教授の見解をもとに、市民団体「つくばセンター研究会」(冠木新市代表)が、五十嵐市長や小久保貴史市議会議長に対し、計画の見直しを求める要望書を2度、提出していた。

メタリックな正方形のアルミ板とガラス窓などが残されることが決まったつくばセンター広場の外壁。タープの床穴も空けられないことになった

さらに市が10月1日から31日まで市ホームページで実施した意見募集では、エスカレーターについて意見を出した17人中、15人がエスカレーターの設置は必要ないなどの意見を出していた。

市議からは「そもそも市民説明会を最初からやっていればそんなことはなかった。見直し案ではなく、やり直し案。エスカレーター2基とも無くなるような計画は行政としてあり得ない」(飯岡宏之市議)、「基本設計をやる前に市民意見を聴取していなければならなかった。大きな誤りだったと感じている」(山中真弓市議)など厳しい意見が出た。

価値喪失など懸念する指摘受け

西側(旧ライトオンビル側)に設置予定だったエスカレーターを取り止める理由について市は、意匠への配慮、費用対効果などのほか、市民窓口を当初予定のつくばセンタービル1階から隣接のBiViつくば2階交流サロンに移すため、エスカレーターの利用者が減るなどとした。エスカレーターについては、2基の計画のうち北側の1基を今年6月、議会の意向を受けて市が設置を取り止めた。今回取り止めが決まった西側のもう1基については市民団体から、設置に伴いセンター広場の外壁を改変することになり、センター広場と不可分な空間として国際的に高い評価されてきた広場の価値を喪失させる、10メートルも離れてない位置に既存のエレベーターがある―などと指摘していた。

センター広場を取り囲む外壁は、現在の壁を撤去し開閉式のガラス扉に取り換える計画だったが、意匠へのさらなる配慮と費用対効果を考慮しそのまま残す。市民団体は、中央広場の壁はメタリックなアルミの正方形とガラス窓、ガラス扉のバランスで構成されており、外壁を撤去することは中央広場の形状を変えることになるなどと指摘していた。

取り壊さないことになったノバホール小ホールの通路の壁

ノバホールと小ホールの間の1階通路の片側の壁を壊して通路を狭める計画は、意匠に配慮して取り止める。併せて市民活動総合センターの設計を見直す。通路については市民団体から、堅牢な石造りの壁でできた通路は研究学園都市の都市軸を形成しているなどの指摘があった。一方、通路を保全することに伴って、高校生が勉強などするフリースペースが、現在の市民活動センター部分から通路部分に移動する。現在の通路は照明が暗く室温の調整もなされてないことから、照明を明るくしエアコンを整備して室内環境を向上させるという。一方「気の毒。落ち着いて勉強できるのか」(橋本佳子市議)など、課題を指摘する意見も出た。

危険性が指摘されスロープ設置を取り止めることになったノバホール西側の外階段

ノバホール西側外階段は、土浦学園線から車両の乗り入れができるよう半分を改変しスロープをつくる計画だったが、安全性を考慮して取り止める。市民団体は、スロープの傾斜角が急で、車いすやベビーカーには使用できず建築基準法やバリアフリー法からみて問題。急勾配のスロープを下りた自転車などが、歩行者と接触したり、交通量が多い土浦学園線で事故が発生する危険がある、すでにキッチンカーが出入りしている既存の車用スロープを利用すれば足りるなどと指摘していた。

市による今回の大幅な見直しについて、建築意匠を守るよう要望していたつくばセンター研究会の冠木代表(70)は、「全面的に市の計画が変わりびっくりしている。(当初の計画が)すべて撤回され、ひじょうに良かった。ただここまでこじれたのは手続き上、問題があったのだと思う」と話している。(鈴木宏子)

➡NEWSつくばが取材活動を継続するためには皆様のご支援が必要です。NEWSつくばの賛助会員になって活動を支援してください。詳しくはこちら

57 コメント

57 Comments
フィードバック
すべてのコメントを見る
スポンサー
一誠商事
tlc
sekisho




spot_img

最近のコメント

最新記事

「おひたじ」のまち土浦《くずかごの唄》156

【コラム・奥井登美子】 「土浦は『おひたじ(醤油=しょうゆ)のまち』と聞いていたけれど…」 「うちの隣りのあの大きな倉も、昔、醤油を作っていたらしいわ」 「おひたじ、使い過ぎですよ。漬物にまでかけるのね」 私の母は明治時代、京橋で生まれて育った人。醤油のことを「おひたじ」と言っていた。常陸の国の「ひたち」が下町風になまって、「おひたじ」になったらしい。 私が3人目の女の子を出産したときだった。奥井家の親戚の男の人から「女っぱら…」と言われ、私は何のことやら、さっぱりわからなかった。家が重んじられた江戸時代、女の子ばかり産んでいる母親を「差別用語」でそう呼んだらしい。 まだそのような差別用語が、土浦には残っていたのかと、びっくりした。 醤油ジャブジャブの夫 私の夫、奥井清は94歳まで日本山岳会に入っていて、山登りを楽しみながら、明るく、たくましく生きて、天国にみまかった。 彼は76歳のとき、東京のお茶の水で大動脈解離を起こし、救急車で当時の東京医科歯科大学病院に運ばれた。大動脈の中膜が脳へ行く1センチ下からの解離で、脳味噌も何とか機能を保持しながら退院ができた。 3人の娘たちは、子育てしながら仕事をしていたが、介護の私を実に細かくサポートしてくれた。「女っぱら…なんて言われたけれど、女の子が3人いて本当によかった」。彼はしみじみとそう言って、3人の娘たちに感謝していた。 退院のときに医者から強く言われたのは、食事の塩分制限だった。お醤油をジャブジャブ使う夫の舌を、どうやって改造し、塩分を減らしていけばいいのか、私は途方にくれてしまっていた。 千葉大学病院で胃がんの手術をしていた外科医だった兄も、「大動脈解離の後、いつ何が起こるか分からない状態だから、2人とも覚悟して生活を変えなさい」と、心配してくれた。 医者の言うことは聞いてくれるが、私が言えば反発するに違いない。当時、霞ケ浦医療センターに栄養指導の部門があったので、そこへ2人で通院することにした。(随筆家、薬剤師)

「水エンジン」量産へ 東大発 宇宙ベンチャーがつくばに生産拠点

小型人工衛星向けの推進機(エンジン)を開発する東京大学発の宇宙ベンチャー、ペールブルー(Pale Blue 本社・千葉県柏市、浅川純社長)がつくば市内に建設していた「つくば生産技術開発拠点」の開所式が8日、大井川和彦知事、五十嵐立青つくば市長ら関係者30人余りが参加して催された。同施設では、同社が開発した「水」を推進剤とする独自のイオンエンジンの量産に向け、技術開発から製造、検査、出荷までを1カ所で完結させる。 拠点は、つくばエクスプレス(TX)万博記念公園駅周辺の工業地域に立地する。鉄骨造3階建て、敷地面積は約1900平方メートル。当初は25年8月の操業開始を予定していたが、実際の稼働は今年2月となった。 用地は県が土地区画整理事業を実施したTX沿線の上河原崎・中西地区内で、県有地をペールブルーが約9800万円で落札し、取得した。土地取得費を含む総事業費は約16億円。成長産業の本社や研究所などの誘致を目的とした県の企業立地促進補助金に、2023年12月に採択された。補助見込額は約1億5000万円。主に人材の雇用に対する奨励金として活用される。 施設内には、真空状態となった内部で機器の試験を行う真空チャンバー、振動試験機、クリーンルームなどの主要な設備があり、推進機の生産技術開発から最終検査・出荷までを自社で完結できる「一気通貫」の体制を構築した。 拠点は今年2月に稼働を開始し、現在は約15人が勤務する。生産拡大に合わせて段階的に人員を増やし、将来的には最大60人体制を目指す。生産技術や品質管理、調達などものづくり関連の人材を中心に採用を強化している。 県プロジェクトの目玉企業 ペールブルーは2020年、東大大学院で航空宇宙工学を専攻した浅川さんら研究者4人が創業した。従来の推進剤には毒性の高いヒドラジンや、希少で高額なキセノンが使われ、取り扱いに制約があった。これに対し同社は、安全で調達が容易な水に着目し、水蒸気やプラズマを噴射して推進力を得る独自の推進機「水イオンエンジン」を開発した。エンジンの重量は、水を含めて約1.5キロ、大きさは約10センチ四方と、従来型では難しかった小型化を実現。浅川さんは水の利点として「安全性、入手性、コスト」の3点だと説明する。2025年9月には宇宙空間で水イオンエンジンを稼働させることに、世界で初めて成功した。 同社が開発する推進機は、ロケットで打ち上げられた人工衛星が宇宙空間で切り離された後に初めて役割を発揮する装置で、推進剤となる水を宇宙空間に噴射し、その反動で衛星を動かす仕組みだ。機能は大きく四つある。衛星を目的の軌道に送り届ける「軌道投入」、空気抵抗や重力の影響で生じる軌道のずれを定期的に修正する「軌道維持」、運用を終えた衛星を大気圏に落下させる「軌道離脱」、増加が問題となっている宇宙ごみ(スペースデブリ)との「衝突回避」だ。 近年は多数の小型衛星を連携させて運用する「衛星コンステレーション」が急速に広がり、年間数千機規模の打ち上げが続く。衛星の数だけ推進機が必要となるため、需要は世界的に増加している一方で、供給が追いついていないと浅川さんは言う。 県は2018年、JAXA(宇宙航空研究開発機構)と連携し宇宙ビジネスに取り組むベンチャー企業などを支援する「いばらき宇宙ビジネス創造拠点プロジェクト」を立ち上げた。大井川知事は開所式で「宇宙開発は新たな段階に入りつつある。つくばを中心に宇宙ビジネスに貢献できる企業を集積したい。ペールブルーはプロジェクトの中でも目玉の企業であり、県としてしっかりと支援していく」と述べた。 五十嵐市長は「世界から注目されるペールブルーの新拠点がつくば市にオープンしたことを光栄に思う」と歓迎し、約4年前から欧州の宇宙産業をリードするルクセンブルクの機関と連携協定を結び、市内のスタートアップを現地に派遣するプログラムを実施しており、ペールブルーの海外展開についても支援する意向を示した。(柴田大輔)

抗がん剤治療を始めて3カ月《ハチドリ暮らし》60

【コラム・山口京子】ステージⅣ、肝臓・肺・リンパに転移している末期の直腸がんと診断され、抗がん剤治療を始めて3カ月。6回目の治療が終わりました。 がんと分かった昨年暮れの腫瘍(しゅよう)マーカーの値は370.9。抗がん剤を始める直前の値は532.2。わずか20日の間に160も上がっていました。それが、抗がん剤治療を始めて1カ月後に91.0、2カ月後には21.8まで下がりました。 抗がん剤治療を受けながら、自分にできることは何かを考えました。がん関連の本を読んで、食事を見直す、身体を温める、免疫力を高める治療やサプリメントを試す―など、できることをいくつか書き出してみました。 効くと言われる治療やサプリメントなどを推奨する書籍コーナーには、がん関連の本が山積みです。けれど、ある人に効いた治療やサプリメントが自分にも効くかどうかは分かりません。がんの仕組みも人体の仕組みも分からない素人が読んでも、判断できないというのが正直な気持ちです。 なので、自分が納得できるところから始めました。まずは食事の見直しです。それまで毎日飲んでいたビールを止める、ニンジンとリンゴのスムージーを毎朝飲むようにする、バランスのとれた食事を意識する、体重が40キロ切らないようにする―など。 生きたいとあがいている私 がんが好むのは低体温の体なので、陶板浴を利用して全身を温めることも始めました。陶板の上に横になるととても気持ちがよく、ホッとします。陶板浴では、がんや免疫に関する勉強会、がんになった人の交流会、身体を整える整体や足もみ、ストレッチなどの企画があります。がん関連の本がたくさん並べられ、無料で貸してもらえます。 抗がん剤治療と同時に、知人が勧めてくれたサプリメントも飲み始めました。抗がん剤の働きを助け、副作用を抑制し、免疫力を高める効用があるそうです。最初はこのサプリがよいかどうかよりも、信頼できる人が勧めてくれたことを信じた自分がいました。飲んでみると、体調がよくなっていると感じます。 局所温熱のマイクロ波を患部に当てる治療もしています。この治療が書いてある本を読み、自分で試したいと思いました。この治療ができる病院が市内にあったのがラッキーでした。こうして振り返ると、生きたいとあがいているのかな、と。治るのは無理としても、痛みや不快のない生活が少しでも続いてほしいと…。(消費生活アドバイザー)

「芥川龍之介記念館」来年夏に開館《ふるほんや見聞記》15

【コラム・岡田富朗】芥川⿓之介は、東京帝国⼤学(現・東京⼤学)学⽣であった1914(⼤正3)年から亡くなる1927(昭和2)年まで、北区⽥端に暮らしました。その芥川の居住跡地に、「芥川龍之介記念館」(仮称)が、没後100年を迎える2027(令和9)年夏に開館する予定です。命日である7月24日は「河童忌」と呼ばれ、毎年芥川龍之介をしのぶ催しが行われています。 ⽥端には、明治から昭和期にかけて、1キロ四方の狭い地域に累計100人以上もの芸術家や文筆家らが暮らしていました。1889(明治22)年に東京美術学校(現・東京藝術⼤学)が上野に開校すると、上野への便がよい⽥端には、芸術を志す若者たちが住むようになりました。 そして1914(⼤正3)年に芥川⿓之介が転⼊し、その後、室⽣犀星、菊池寛、堀⾠雄、萩原朔太郎、⼟屋⽂明らも転⼊し、芸術家のみならず、多くの⽂⼠も住む地域となっていきました。 陶芸家の板谷波山も、1903(明治36)年から、当時、人家少なく故郷の筑波山を望むことのできる場所ということで、田端に居を構えていました。1945(昭和20)年、戦災により住居兼工房が全焼し、郷里に疎開しましたが、戦後再び戻り、終生田端で暮らしました。 芥川⿓之介の没後、⽥端の家にはご遺族が居住していましたが、1945年の空襲により焼失し、ご遺族は転居しました。その後、集合住宅1棟と個人住宅2棟が建ちましたが、2017(平成29)年、そのうち1棟が売却されることとなり、翌18年に北区はその⼟地を購⼊し、国内初となる「芥川⿓之介記念館」(仮称)を建設することを表明しました。これまで芥川⿓之介を単独で顕彰する記念館・⽂学館は設置されてきませんでした。 大正期の暮らしを体感できる場所 芥川龍之介が居住し、多くの作品を生み出したこの地において、記念館は大正期の暮らしや創作環境を体感できる場所となります。邸宅2階にあった書斎は、創作の場として再現され、芥川が実際に使用していた文机やインク入れ、ペンなども複製して配置されます。来場者は再現された書斎に実際に入ることができ、これらの複製品に触れることもできます。 また建物や内装、庭園に至るまで、当時の姿を参考にしながら空間の雰囲気を大切にし、庭の木々や石の配置についても、写真資料などを手掛かりに芥川が見ていた風景の面影を感じることができるよう、整備をする予定です。館内には展示スペースのほか、ミュージアムショップの設置も予定されています。 北区地域振興部文化施策推進課の飯塚さんは「今では、田端に住む人の中でも芥川龍之介が実際に田端に住んでいたことを知らない方が増えています。北区民、文学ファンの中でも「芥川といえば⽥端」ということを知らない人たちに、是非足を運んでいただき、芥川が数多の名作を生み出した書斎などを「体感(feel)」して、楽しんでもらいたい」と話してくれました。 芥川⿓之介の作品は40を越える国・地域でも翻訳され、現在も世界中で高く評価されています。開館に向けてクラウドファンディング(CF)も行われており、海外からの支援も寄せられているそうです。今後のCFは今年の夏ごろを予定しているそうです。(ブックセンター・キャンパス店主)