日曜日, 3月 15, 2026
ホーム土浦《霞月楼コレクション》11 リンドバーグ夫妻 土浦で名残りの一夜「人生最良の日々」

《霞月楼コレクション》11 リンドバーグ夫妻 土浦で名残りの一夜「人生最良の日々」

【池田充雄】1931(昭和6)年9月12日、リンドバーグ夫妻は、霞ケ浦を発つ前の最後の1日を土浦で過ごした。錦秋の筑波山をケーブルカーで登り、夜の土浦の街でそぞろ歩きも楽しんだ。午後6時30分に霞月楼に戻って入浴後、霞ケ浦海軍航空隊の松永寿雄副長主催による歓送会が松の間で開かれた。

霞月楼での歓送会の様子。中央にチャールズと松永副長、その右にアン。外国客向けに特注した高脚の膳が並ぶ

宴を待つ間、満寿子女将が夫妻に茶を立てており、当時10歳の恒二(後の霞月楼3代目)が迎えに行くと、アン夫人が歩み寄り、頬に優しくキスをしてくれたそうだ。芸者の白粉とは違う、初めて嗅ぐ香水は少年にとって忘れられない思い出になり、集まった記者団に感想を聞かれ「とてもいい匂いがした」と答えたという。

1カ月の長旅の末に霞ケ浦へ

霞月楼で歓送会を前にくつろぐ夫妻

チャールズ・オーガスタス・リンドバーグは1902(明治35)年米国ミシガン州デトロイト生まれ。曲芸飛行士や郵便飛行士などを経て、1927(昭和2)年に愛機スピリット・オブ・セントルイス号でニューヨーク・パリ間を飛び、世界初の大西洋単独無着陸横断飛行に成功した。1929(昭和4)年に駐メキシコ米国大使ドワイト・モローの息女アンと結婚。1931(昭和6)年に北太平洋航路の調査飛行に乗り出し、アン夫人も無線通信士として同行した。

夫妻は7月27日にロッキード社のシリウス高速連絡機でニューヨークを出発。ワシントンDCを経由し、カナダのハドソン湾やノースウエスト地方を抜け、アラスカからベーリング海を横断。カムチャッカ半島を海岸線沿いに南下し、千島列島を伝って8月24日に北海道へ到達した。根室に2日間滞在後、26日午前8時21分に離水し、午後2時6分に霞ケ浦上空へ飛来。航程1万2000キロ、80時間33分の飛行で17地点をたどる長旅だった。

空の大使として多忙極める

シリウス機は午後2時10分霞ケ浦に無事着水。フォーブス駐日米国大使、安保清種海軍大臣、杉山元陸軍次官、小泉又次郎逓信大臣ら日米の政府高官や海軍関係者など約1000人が出迎え、国内外からの取材陣は200人を超えた。

霞ケ浦海軍航空隊水上班の中央滑走台に到着したシリウス機

霞ケ浦海軍航空隊第一士官宿舎食堂で歓迎会の後、来賓と共に自動車約30台を連ねて土浦駅へ向かい、午後4時40分発の常磐線汽車に乗車。6時28分に上野駅を降り、リンカーンのオープンカーで沿道の大観衆の喝采に応えながら、7時15分に築地明石町の聖路加病院トイスラー院長邸へ到着。ここが夫妻の東京での拠点になった。

27日から31日まで多数の歓迎式典や表敬訪問をこなし、9月1日から4日までフォーブス大使の軽井沢別荘で休養。5日は日光を周遊し金谷ホテルで1泊、6日に東京へ戻った。7日以降も各種行事の合間を縫って、チャールズは逓信省航空局で飛行計画の打ち合わせや、霞ケ浦で愛機の点検と試運転など出航準備を進め、アン夫人は博物館の見学や茶道・華道の体験などをして過ごした。

最新技術が搭載された名機

ロッキード・シリウスの開発にはリンドバーグ自身も加わり、彼の要望が細部まで反映された。全長8.38メートル、翼幅13.7メートルの木製モノコック構造で、当時としては珍しい低翼単葉機。P&W社の425馬力空冷9気筒エンジンを搭載し、最大時速282キロ、航続距離1700キロという高性能を誇った。日本の海軍関係者は「わが国は10年以上の遅れがある」とショックを受けたという。

空を行くシリウス機。褐色の翼に紫色の胴体、ジェラルミン製の白いフロートという姿だった

シリウスの整備は水上班第16格納庫で行われ、エンジンや機体の秘密を探る絶好の機会になった。霞ケ浦航空隊の整備員と、同隊内に分社があった中島飛行機の技師らも参加して修理に着手。破損個所の修繕や塗り替えによって見違えるようになり、リンドバーグは日本の整備技術の優秀さに舌を巻いたそうだ。

欧米では1930年代半ばに技術革新が進み、ドイツのメッサーシュミットや英国のスピットファイアなど新鋭機が次々に登場。一方、日本ではその頃もまだ複葉機が全盛で、総金属製の低翼単葉機というと海軍では1936(昭和11)年の九六式艦上戦闘機、陸軍では1937(昭和12)年の九七式戦闘機が最初。その後は陸軍の「隼」や海軍の「零戦」が世界を驚かせることになる。

アン夫人が見た日本の宴席

再び9月12日に話を戻す。霞月楼での歓送会の詳細は不明だが、根室で初めて受けた日本式接待の様子をアン夫人が手記に残しており、土浦でも同様の印象だったかと思われる。

「畳の敷いてある大きな部屋にロの字型に座布団が置かれ、チャールズは光栄な場所にあたる床の間の前に座りました。一人一人に小さなお膳が運ばれ、そこにはいろいろな大きさと形のお皿が載せられ、20枚以上の違ったお皿があったと思いますが、どれも私が見たことのないものでした。その後、華やかに装った芸者たちがお酌をして踊りを舞い、臨席の人たちを楽しませました。不思議なポーズをとる舞踏で、顔は人形のようで表情がなく、足でステップを踏むというよりは、どちらかというと手と長い着物の裾で踊るのです。ゆっくりとした短調の歌に調子を合わせた、とても美しいもので、両手の指は絶対に開きませんので、単純な仕草でも気が散ることはありません。鳥が飛ぶ時のように、敏捷で真っ直ぐな動きです」(アン・モロー・リンドバーグ著「輝く時、失意の時」より抜粋・構成)

夫妻は霞月楼で1泊し、9月13日午後0時21分霞ケ浦を離水、大阪市の木津川飛行場に着水後京都に入り、14日から16日まで京都・奈良を堪能。17日に大阪から福岡市の名島水上飛行場へ移動し、19日朝に福岡から中国南京へ向けて飛び立った。

佳日の思い出はそのままに

霞ケ浦にて愛機を背に記念写真

1970(昭和45)年の大阪万博ではシリウスがアメリカ館に展示され、来日していたリンドバーグが当時10歳の浩宮徳仁親王(今上天皇)を操縦席へ案内した。シリウスは現在、ワシントンDCのスミソニアン国立航空宇宙博物館に、スピリット・オブ・セントルイス号などと一緒に展示されている。

晩年の夫妻はハワイのマウイ島に住み、チャールズは1974(昭和49)年に72歳で死去。アンは2001(平成13)年にバーモント州パサンプシックで94歳の天寿を全うした。

霞月楼では1989(平成元)年の創業100年祭に際し、アンを式典に招待するべくマウイ島に訪ねた。彼女は「当時のことはよく覚えている。私の最も幸せな時期だった。だが式典には行かない。思い出はあのときのまま、自分の心の中に置いておきたい」と話したという。

●取材協力・参考資料
陸上自衛隊武器学校▽陸上自衛隊霞ケ浦駐屯地▽土浦市立博物館▽ジョイス・ミルトン「リンドバーグ」(中村妙子訳、1994年、筑摩書房)▽アン・モロー・リンドバーグ「輝く時、失意の時」(中川経子訳、1997年、三好企画)▽アン・モロー・リンドバーグ「翼よ、北に」(中村妙子訳、2002年、みすず書房)▽「霞月楼百年」(1988年、霞月楼)▽東京朝日新聞、讀賣新聞、いはらき各1931年8月26日~9月19日付▽夕刊フジ1974年8月30日付▽ウィキペディア

シリーズ協賛 土浦ロータリークラブ 土浦中央ロータリークラブ

➡NEWSつくばが取材活動を継続するためには皆様のご支援が必要です。NEWSつくばの賛助会員になって活動を支援してください。詳しくはこちら

スポンサー
一誠商事
tlc
sekisho




spot_img

最近のコメント

最新記事

49年 市民が清掃活動 水戸街道の松並木守る 土浦

文化財愛護の会 土浦市東若松町にある市指定史跡「水戸街道松並木」で14日、市民団体「土浦市文化財愛護の会」による清掃活動が実施された。清掃活動は1977年の同会発足以来、49年間にわたって続いている。現在、旧水戸街道で松並木が残っているのは、この東若松町~板谷七丁目周辺だけ。 江戸時代から続く貴重な景観 水戸街道は、江戸時代初期の1604(慶長9)年、幕府により千住(東京都足立区)―水戸間の29里19町(約116km)が整備された。脇街道という位置付けで、東海道などのいわゆる5街道に次ぐ主要な街道だった。江戸時代の街道には、通行人を暑さ寒さから守るために松並木が整備されていた。 「ただし木自体はマツクイムシなどの被害により植え替えが進み、江戸時代のものはおそらく残っていない。それよりも、松並木の景観を守り伝えることこそが重要」と、愛護の会副会長の小林静さん(80)。 この日は会員約30人が参加し、プロテリアル金属(旧日立電線)入口から「板谷の一里塚」までの1キロメートルほどの範囲を手分けして清掃。午前9時から11時までで、90リットル入りのビニール袋70個分ほどの枯れ松葉を集めた。例年は100袋ほど集まるのでやや少な目だそうだ。袋は軽トラック3台に山積みにされて清掃センターへ運ばれた。 会員の一人、塙秀弥さん(23)は筑波大学の4年生で4月からは大学院に進む予定。学芸員の資格取得のため文化財について学んでおり、地域の文化財がどのように守られているか興味があって入会したという。「この並木道に来たのは初めてで、太い幹が残っているのを見て驚いた。普段は素通りしてしまうものに目を向けるきっかけにもなった。清掃活動は誰かがやらないと景観を損ねてしまう。やってよかったし、これからも参加していきたい」と感想を話した。 史跡の手入れやパトロールも 会員の一部は松並木の作業を終えた後、同市小高の高崎山古墳でも清掃作業をした。今年は一色家住宅(西真鍋町、国登録有形文化財)、鉄砲塚(都和一丁目、市史跡)、大岩田の一本松(通称・予科練の松)なども予定するほか、文化財パトロールも随時行っていく。以前は地主や地域の手で管理されていたものが、人手不足により行き届かなくなるケースが増えてきているという。 愛護の会の会員数は、各研究部会を合わせて250人ほどになるが、高齢化も進んでいることが悩み。もっと認知度を高め、会員を増やして活動を継続させていきたいと、市の産業祭や各中学校区の公民館祭りに参加し、地域の文化財を紹介するといったPR活動にも力を入れ始めている。(池田充雄) ◆活動は会員外の見学・参加も歓迎。問い合わせは土浦市文化財愛護の会事務局(上高津考古資料館・古橋さん、電話029-826-7111)へ。

お上の悪には善では勝てぬ《映画探偵団》98

【コラム・冠木新市】1969年、篠田正浩監督が近松門左衛門作の人形浄瑠璃「心中天網島」をモノクロで映像化し、キネマ旬報ベストワンを授賞、映画界の話題を独占した。そして1970年には、河竹黙阿弥作の歌舞伎「天衣粉上野初花」をべースにした寺山修司脚本の「無頼漢」(カラー)が公開された。 「無頼漢」は、闇に浮かぶ浮世絵師・絵金の絵を効果的なセットに使い、原色の衣装などで天保時代の江戸文化を再現し、華麗な世界を作りあげた。しかし、「心中天網島」に比べると観客の盛り上がリは今ひとつ起きなかった。 「無頼漢」公開1年後の4月23日、私は篠田監督にTVスタジオで偶然に出会い、話をすることができた。「心中天網島」よりも「無頼漢」が気に入っていると伝えると、「うれしいですね。無頼漢のよさ分かってくれるとは」と言って、胸ポケットから封筒を取り出し、英語の新聞記事を見せてくれた。 「これ、ニューヨ一クで当たっているんですよ。すごい褒め方だ」。そこで「篠田さん自身、心中と無頼漢、どちらが好きですか」と尋ねると、「無頼漢に決まってますよ」と言い切った。 虚構の世界で悪役が活躍する時代 「無頼漢」は、役者志望の遊び人・直次郎(仲代達矢)、妻と息子を亡くした暗闇の丑松、水野忠邦の体制を批判して追われる三文小僧、数寄屋坊主の河内山宗俊(丹波哲郎)、こわもて商人・森田屋清蔵、御家人くずれの金子市之丞、この6人の悪党がお上に対抗する物語である。 直次郎が主役で「芝居小屋の外で芝居をする役者になりたい」と言わせている。河内山宗俊は、上州屋の一人娘が奉公先の武家屋敷で殿様から妾になれと言われて困っていることを聞きつけ、二百両で助け舟を出す仕事を引き受ける。直次郎は侍にふんし、河内山と一緒に屋敷に向かう。つまり、芝居小屋の外で人助けの芝居をうつことになる。 だが後半は、河内山が目立ってくる。御知僧に化けた河内山の正体がばれ、武家屋敷の玄関先で侍に取り囲まれ、啖呵(たんか)を切る丹波哲郎が圧倒的によい。「ええ仰々しい、静かにしろ。悪につよきは善にもと、世のたとえにもいうとおり、親のなげきがふびんさに…」 当時、丹波哲郎の名調子を褒める評論は多かった。「お上の悪には善では勝てぬ」と、悪党・河内山の痛快さは魅力的だ。江戸でも現代でも、虚構の世界で悪役が活躍する時代とは、管理体制と秩序でがんじがらめとなり、自由を失った証しではなかろうか。 もし、つくば市でリバイバル上映するとしたら、人形浄瑠璃の「心中天網島」と歌舞伎の「無頼漢」どちらが受け入れられるだろうか? サイコドン ハ トコヤンサノセ。(脚本家) <物語観光講座「つくつくつくばの七不思議」のお知らせ>▽講演「つくば市章に隠された記号の謎」▽映画『サイコドン』上映とおしゃべり▽3月28日(土)13時半~15時半、カピオ小会議室2、参加費無料

「桜のまち」研究学園の未来へ《けんがくひろば》18

【コラム・二木重光】つくば市研究学園駅前公園は、かつて日本自動車研究所の高速テストコースの一部に位置していた場所です。その歴史を今に伝えているのが、当時の所長さんらによって植えられた桜の木々です。春になると、やわらかな花びらが公園を包み込み、このまちの原風景ともいえる美しい景観を生み出します。新しい街でありながら、ここには確かに受け継がれてきた時間が息づいています。 しかし、その桜も長い年月を経て老木化が進んでいます。ここ数年だけでも病気や虫害の影響により、少なくとも6~7本が伐採されました。満開の華やぎの裏側で、静かに進む衰え…。 大切な風景が少しずつ失われつつある現実は、私たちに「守り、育て、つないでいく責任」を問いかけています。未来へ桜を手渡すためには、これまで以上に計画的な保全と、次の世代へと命をつなぐ取り組みが欠かせません。 そうした思いから、2026年2月17日、研究学園駅前公園の桜について、市公園施設課と意見交換の機会を持ちました。自動車研から引き継いだ桜の保存に努め、駅前公園を「桜の名所」として守り続けていくこと、さらに日本花の会・結城農場桜見本園の協力を得ながら、専門的な知見を取り入れて育成を進めていくことなど、方向性を共有することができました。 4月4日に「けんがくさくらまつり」 公園に残る「関山」「普賢象」「松月」「御衣黄」といった貴重な品種の系統を受け継ぐことは、単に樹木を残すことではなく、この地の歴史と記憶を未来へつなぐ営みでもあります。 研究学園エリアには、駅前公園だけでなく、学園の杜公園や調節池周辺に広がる千本桜など、春を楽しめる場所が広がっています。それらを点ではなく線として結び、面として広げていくことで、「桜のまち」という新たな魅力がより確かなものになるでしょう。 今年も、桜の季節を彩る「けんがくさくらまつり」が4月4日に開催されます(雨天時は4月5日)。会場は研究学園駅前公園古民家周辺。主役は地域の皆さんです。ステージでは音楽が響き、会場には絵画や書道の展示が並びます。子どもたちに人気の消防車の展示や、けん玉や竹馬などの昔あそびも予定されています。世代を超えて笑顔が交わり、桜の下で思い出が重なっていく1日になることでしょう。 桜は、まちの記憶であり、人々の心に季節を届ける存在です。守る人がいて、楽しむ人がいて、未来へと願う人がいる。その積み重ねが、風景を育てます。今年の春もまた、研究学園の桜が、多くの人の心にやさしい彩りを添えてくれることを願っています。(けんがく活動団体連絡会 委員)

震災15年、原発事故を忘れない つくばで集会

東日本大震災と福島第1原発事故から15年を迎えた3月11日、つくば駅前のつくばセンター広場(同市吾妻)で市民集会「さよなら原発 守ろう憲法 昼休み集会&パレード」(安倍9条改悪NO!市民アクションつくば連絡会、東海第二原発いらない首都圏ネットワークつくばなど主催)が開かれた。被災地からの避難者や市民団体の関係者らが登壇し、事故の記憶を語り継ぐことや原発政策、平和について考える必要性を訴えた。 集会の後、「原発再稼働反対」「東海第2原発の廃炉」「再生可能エネルギーへの転換」「いのちと暮らしを守る政治」などを求めるアピール文が参加団体により採択され、参加者ら70人余りがつくば駅周辺をパレードした。 「今も帰れない人たちがいる」 震災後、福島県双葉町から埼玉県加須市へ避難した鵜沼久江さんは、震災直後の混乱を語った。地震発生から2時間後に自主的に避難を始めると、その日のうちに福島第1原発事故による緊急事態宣言が発令され、原発から約3キロ圏内に避難指示が出た。12日早朝には半径10キロに拡大された。その日から15日にかけて、車中泊や避難所を転々とする生活が続き、その間に原発では3度の爆発が起きた。「何が起きているのか分からないまま避難していた」と振り返った。 避難後は埼玉県の高校などに身を寄せ、生活環境の違いから戸惑いも多かったという。双葉町に戻ったときにできることを考え、野菜づくりを学んだが、「15年経っても町に戻って昔のように生活することはできない」と語った。避難生活の中で夫を食道がんで亡くし、自身も昨年心筋梗塞を経験。「原発事故を二度と起こさないために何をすべきかを考えながら生きている」と話した。 また、東海第2原発が立地する東海村から参加した大名章文さんは、村での複雑な状況を語った。東海村は1997年の動燃火災爆発事故や1999年のJCO臨界事故を経験しており、「福島の事故を見て多くの住民が不安を抱えていた」と説明した。 一方で、昨年2月閣議決定された第7次エネルギー基本計画で政府が原発の最大限活用を掲げたことで村の雰囲気が変わったとし、「村民の多くが関連企業で働く中、反対の声を上げることが生活を脅かすかもしれないという恐れがある」と指摘。「言いたいことがあるのに言えない、不安はあるのに表に出せない沈黙の重さがある。だが沈黙は決して同意ではない」と述べ、避難計画など住民の安全確保への問題が解消されない再稼働を認めるわけにはいかないと、反対の立場を示した。 つくば市の市民団体「憲法9条の会つくば」共同代表の石上俊雄さんは、現在も4万2000人以上が自宅に戻れない状況にあることに触れ、「命を守る社会を考える上で、憲法の問題とも向き合う必要がある」とし、防衛費の増加や、ベネズエラやイランでの軍事衝突に言及し、「武力による平和はありえない。対立をもたらし、突発的な戦争の危険を高めるもの。外交や国際協力こそが本当の抑止力だ」と述べ、憲法9条の意義を強調した。 同じく憲法9条の会つくばの阿部眞庭さんは、「福島第1原発事故により今も帰還できない人が多くいる」とし、「被災地で困難な状況にある人がまだたくさんいるのに、政府は原発の再稼働や新増設を進めようとしている。原発は弱い人たちを犠牲にした国策。震災と原発事故を忘れないこと、そして一人一人が考え、行動することが大切だ」などと呼び掛けた。(柴田大輔)