月曜日, 12月 1, 2025
ホームつくばアートで現代社会を切り取る美術家たち 21日までつくば市民ギャラリー

アートで現代社会を切り取る美術家たち 21日までつくば市民ギャラリー

【田中めぐみ】主に県内在住の写真愛好家や美術家たちによる作品を展示した「フォトMAX美術展」が16日、つくば市民ギャラリー(同市吾妻)で始まった。21日まで。2015年から毎年開催されており、今年で6回目。20人の作家が、写真や絵画などジャンルにとらわれない現代アート作品31点を出展している。

主催者の佐々木元彦さん(アース808ギャラリー代表、牛久市)は、元は「週刊新潮」の報道カメラマンだった。仕事でアーティストを取材したのがきっかけで感銘を受け、40代でアートの世界に入ったという。同美術展には、過去の自分の写真や靖国神社に参拝する若者、絵物語作家の山川惣治作品などのモチーフをコラージュした作品「HISTORY(宇宙5秒の世界)」を出展し、宇宙から見れば短い人類の歴史を表現した。

「この美術展に出展する作品には特に基準や制限を設けていない。製作者の好奇心や感性、直観を大切にし、他の美術展には出せないような作品を出してもらっている。アートとは答えがないもの。表現したエネルギーや情報はその人の一部分であり、魂。魂には嘘がない。それが見る人に伝われば」と話す。

大和田清さんと「運転御法度時代考(高齢者・飲酒・ノーベルト)」

桜川市在住の大和田清さんは、「運転御法度時代考(高齢者・飲酒・ノーベルト)」と題した写真を出展した。5、6年前にもらい、家に置いてあったという人体模型から着想を得、運転席に乗せて撮影。高齢ドライバーや違法運転といった社会問題をコミカルに風刺した。「社会的な問題をテーマに、現代に合った作品を作ろうと思った」と話す。

清水牧夫さんが出展したのは、今年1月に渋谷で撮影した写真「STOP!COVID-19」。撮影当時は、日本初のコロナウイルス感染者が確認されたとの報道で世の中が騒ぎ始めた時期だったという。大きな口を開けた看板モデルと対照的に、被写体の男性は少し口元を気にしながら立っている。「まずは見ている人に足を止めてもらい、その後作者が何を思っているのか、立ち止まって考えてもらえるような作品を心掛けている。きれいなだけの写真ではなくて、何かメッセージを持たせたい」と語る。

清水牧夫さんと「STOP!COVID-19」

布施谷敏子さんは、主催者の佐々木さんが講師を務める写真同好会「写心遊学クラブ」のメンバーで、5年前から写真を始めたという。「雨上がり」と題した写真は、絵のように見えるが加工ではなく、自分の影を写したもの。「歌舞伎座に出かけた時、外階段に出ようとすると水たまりができていて、偶然自分の影が映ったのを撮影した」と話す。外出していておもしろい光景があると撮影をして楽しんでいるという。

布施谷敏子さんと「雨上がり」

◆フォトMAX美術展Vol.6「過去~現在~未来の自伝」 21日(月)までつくば市市民ギャラリー(つくば市吾妻2-7-5、中央公園レストハウス内)。開館は午前9時半~午後5時(最終日は3時まで)。入場無料。 問い合わせ:佐々木元彦さん(080-1210-1695)

➡NEWSつくばが取材活動を継続するためには皆様のご支援が必要です。NEWSつくばの賛助会員になって活動を支援してください。詳しくはこちら

スポンサー
一誠商事
tlc
sekisho




spot_img

最近のコメント

最新記事

愛犬ミミの自然死《くずかごの唄》153

【コラム・奥井登美子】戦時中の小学4年生の時、かわいがっていた犬を愛国婦人会のおばさんたちに連れていかれてしまってから、私はショックで、しばらく犬の顔が見られなかった(10月23日掲載)。 結婚して東京から土浦に住むようになり、舅(しゅうと)と姑(しゅうとめ)の介護に振り回された。国の介護制度が整っていなかった時代だったので、ご近所の人や医療関係の友達に助けていただいて、何とか家族の危機を乗り切ることができた。 それから何十年か経ち、介護の苦労もすっかり忘れたころ、孫が犬の赤ちゃんをもらって来て、ミミと名付けた。わが家のアイドル犬ミミは特別元気な犬で、庭の中を駆け回って昆虫を追いかけるのが大好きだった。力が強く、つながれた鎖を引きちぎってしまったこともある。 犬の自然な寿命はよく分からないが、15歳くらいらしい。赤ちゃんの時にもらわれてきたミミは、18歳で歩くことができなくなってしまった。 人間は歩けなくなってしまっても、言葉で意志を通じることができるので、介護の人が適切に動いてくれれば生活できる。しかし犬は困る。ワンワンという言葉しかしゃべらないから、歩けなくなったイラダチをどう表現するのかわからない。何を考え、何を望んでいるのか、飼い主にも見当がつかない。 歩けなくなってしまったミミ 歩けなくなった犬はどうしたらいいのだろうか…。 難しい問題である。私は犬の自然死を体験してみるのも、自分の死に方に参考になるのではないかと思った。人間も明治時代前は自然死に近かった。漢方医など医者はいたが、かかれない人も多く、薬の成分はほぼ天然由来の植物や鉱物ばかりだった。 ミミを日当たりのよいサンルームに移動し、鎖は金属で重いから、軽い布のひもに取り替えた。排泄物はどこでどうするのかわからない。サンルームにゴザを敷き、その上にオシッコでぬれても構わない色々な種類のカーペットを敷き、ミミがその日に自分の気にいった場所を選べるようにしてみた。 難しいのはドックフード。今はいろいろな種類のドックフードを売っている。何種類か買ってきて、別々の容器に入れて何を食べてくれるのか試してみた。スープと水と漢方薬もお湯で溶いて、何種類か置いてみた。 歩けなくなってしまったミミは、私の作った犬介護ベッドで108日間生きていた。最後の一週間は何も食べなくなり、私の胸に抱かれながら、静かに満足そうな顔をして息を引き取った。(随筆家、薬剤師)

隣国・中国を視察して《令和樂学ラボ》38

【コラム・川上美智子】水戸市は、中国 重慶と友好交流協定を25年前に結んでいる。重慶は、上海、北京、天津と並ぶ中国四つの直轄市の一つであり、面積も人口も世界最大で、3200万人超の人々が住んでいる。日本では、広島市と水戸市の2市が友好交流都市となっており、水戸市と重慶は定期的に相互の国を表敬訪問し友好関係を深めてきた。 10月15~19日、水戸市は、団長・髙橋靖市長、副団長・綿引健市議会副議長とする総勢33名の友好交流25周年記念親善訪問団を仕立て、5日間の視察を行ってきた。私自身は、8年前に次いで2回目の訪問であったが、その後の重慶の発展ぶりを見たいという強い思いで参加した。 現在、高市早苗首相の衆議院予算委員会の答弁が発端で、日中関係が目まぐるしく変化し、気になるところであるが、日本にとっては大切な隣国である。本視察は今後の日中関係を考える上でも、学びの多い有意義な5日間であった。 中国は、私の長年の研究対象<茶>の故郷であることから、30代のころより研究や学会発表などで訪問し、隣国の移り変わりを見てきたが、超高層ビルが林立する重慶に迎えられて、今回ほどその発展ぶりに驚かされたことはなかった。また、日本文化のルーツでもある中国の歴史文化のスケールの大きさに触れる貴重な機会にもなった。 訪問2日目の公式行事で、重慶市人民政府外事弁公室を表敬訪問した。訪問では、沔子敏(Feng Zimin)副主任と日本国駐重慶総領事館の高田真里総領事、横山理紗副領事がお出迎えくださり、歓迎レセプションが開かれた。 沔副主任は、団員一人ひとりとシャンパンで乾杯を交わされ、名刺交換の際には、子(Zi)という字が私の名前にも入っていることを見つけられ、同じだねと喜んでくださった。本当に丁寧にもてなされて、一同感激し、友好を深められたことを喜んだ。また、日本の外務省に所属する女性官僚2人が領事、副領事を務められ、国際社会の前線で活躍される姿に頼もしさを感じた。 両国友好こそが平和維持に不可欠 水陸の要所であり、一帯一路の中心に位置する重慶は、習近平が掲げる「中国を世界の工場にする」との方針のもと、世界的な工業都市として発展を続けてきた。私たちは重慶九州神鷹通航公司と重慶長安汽車工場を視察した。 重慶九州神鷹通航公司は、ドローンやヘリコプター、プライベート飛行機などの利用拡大のための施設で、機器の貸し出しや操縦指導などの支援を行っていた。広大な領土を有する中国ならではの空の利用促進を狙ったものとなっていた。 重慶長安汽車工場は、中国でBYDや吉利汽車、テスラ中国に次ぐ、販売台数シェア第4位の最先端の電気自動車工場である。ラインのロボットアームが金属板の切断、曲げ、溶接、塗装、組み立ての一連の作業を行い、タイヤをはめるのと最終チェックだけを人が関わっていた。その場で360度回転する車や、センサーを多用した車など、利便性の面では日本車より遥かに先端を行っていた。 中国には59のユネスコ世界遺産があるが、その一つ、大足石刻を訪れ、丘陵石窟に彫られた仏教、儒教、道教の1万体の石像も見学した。唐代から宋代まで500年間かけ造られた壮大な芸術群に驚かされた。今回の視察は、中国がもつ底力や未来への伸び代を理解する上で大変意義深いものであった。 今年、日中国交正常化53年目を迎えたが、両国間の友好こそが平和維持に不可欠であることは言うまでもない。(茨城キリスト教大学名誉教授、関彰商事株式会社アドバイザー)

「来年はもっとバージョンアップ」 関彰商事とハノイ工科大 スポンサー契約を更新

日本商工会議所が関心 関彰商事(本社 筑西市・つくば市、関正樹社長)つくば本社で28日、同社が包括連携協定を結ぶベトナム・ハノイ工科大学とのスポンサー契約更新の調印式が催された。関社長は「ハノイ工科大学とは10年の付き合いがあるが、来年はもっとバージョンアップいきたい。今回、日本商工会議所が関心をもってくれたことが成果。日本とベトナムの架け橋になれるようがんばっていきたい」と話した。 調印式には同大からヴー・ヴァン・イエム副学長ら3人が出席し、同社社員らがベトナムの国旗を持って一行を出迎えた。関社長は「壁は日本語、さらに多くの学生が日本企業で活躍できることと、この事業が持続していくことを期待している」と述べた。 同大からは、優秀な学生に奨学金を出し最終的に日本企業に貢献してもらうことや、高校生の交換留学を進めることなど二つの提案があった。 同社は2016年にハノイ市に事務所を開設し、ベトナムでの事業をスタートした。グループの人材派遣会社である「セキショウキャリアプラス」が、今年第12回目の合同企業説明会「セキショウ ジョブ フェア」をハノイ工科大学で開催。日系企業によるベトナム人大卒エンジニアなど高度外国人材採用や、ベトナム人求職者の就労をサポートしている。18年にはハノイ工科大学を支援するスポンサー契約を結び、継続している。 同大は1956年に設立されたベトナム初の技術系総合国立大学で、同国の理科系大学では最難関とされる。学生数は4万人以上を超え、1学年600人余りが日本語を学ぶ。11月2日と3日に同大で開催されたジョブフェアには2000人以上が参加している。日本では東京工業大学、慶応大学などが姉妹校となっている。 同社の寄付金により同大に建設中の日本とベトナムの文化交流施設「越日スペース」は、来年8月に完成が予定されている。施設は2階建てで、日本語学習や関連セミナー、文化交流などのイベントが開催されることになっている。(榎田智司)

つくばセンター地区と水戸芸術館に見る「理想の終わり」《水戸っぽの眼》7

【コラム・沼田誠】現在、水戸芸術館(水戸市五軒町)では「磯崎新:群島としての建築」展が開催されています。今回コラムでは、この企画展を見て考えたことを踏まえ、つくばセンタービル(1983年開園)と水戸芸術館(1990年開館)を比較してみたいと思います。様々な要素の併置両建築には二つの共通項があるように感じています。一つは「複数の異なる機能や要素を、同じ場所に置く」という特徴です。様々な機能や意匠が、統一された秩序の下に配置されるのではなく、まるで島々のように並び立っているということです。 これは、磯崎が1970年代末から展開した「群島」という思想に基づくものです。都市はもはや単一の理念や価値観では成り立たず、異なる文化や論理が、時に緊張関係をはらみながら併置される―そのありさまを建築で表現しています。 もう一つは、広場に立った時の「静謐(せいひつ)さ」です。センタービルも、水戸芸術館広場も、アラン・ポーの小説『アルンハイムの地所』に描かれるような、外界から隔絶された「閉ざされた理想郷」の趣があります。 例えば、センター広場で行われるイベントの多くは、広場そのものではなく、その周囲のペデストリアンデッキなどで展開されています。ある出展者にその理由を尋ねたところ、「センター広場だと音も外に伝わらず、イベントの開催に気付かれないから」とのことでした。人を選別する空間広場とは本来、誰にでも開かれた空間であるはずです。しかし、二つの広場は、どこか「理性的にふるまう者」だけが立ち入ることを許された場所として造られているからではないか─そんな気がしてなりません。そして何より、そのことに誰よりも自覚的だったのは、磯崎自身だったはずです。 その証左として、磯崎自身が制作した版画作品「廃墟と化したつくばセンタービル」(1985年)があります。センタービルが完成する前から、彼はその廃墟としての姿を想像していました。それは、建築が制度や理性の象徴として立ち上がりながら、同時に崩壊へ向かう運命にあることを暗示しています。 つまり、センター地区における「群島」とは、単なる多様性の象徴ではなく、統合する理念が失われた後の「残骸」の姿でもあるわけです。それは、多様性を認めながらも他者との交わりを恐れる、近代的な知性の孤独と言えるかもしれません。 あるいは、無目的=屹立(きつりつ)した個性が明確でないことに対する「恐れ」も含んでいるのではないかとも感じます。かつて「多目的ホールは無目的ホール」という言葉が関係者より繰り返し語られていたことが思い出されます。廃墟から再構築へ一方、水戸芸術館には、同じ群島的構成でありながら、こうした「廃墟」のイメージや関連作品が見当たりません。その理由をあえて想像するなら、芸術館が計画された時代背景(1980年代後半)が大きい気がします。そのころ日本は、バブル景気による過剰な繁栄に包まれ、世界では冷戦が終結し、崩壊の予感よりも明るいムードが満ちていました。 こういった時代を受け、磯崎は「理性の限界を嘆く建築家」から「異なる文化をつなぐ媒介者」へと、立場を変えていったのではないかと想像します。 「廃墟」はもはや前提として内側に沈み込み、それを踏みしめながら、もう一度秩序を構築しようとする意思へと転じたのではないでしょうか。個人的には、合理的な西洋近代に代わるものとして、東洋的な思考、具体的には「風水」的な意匠を水戸芸術館に取り入れようとしたのではないかと感じています。 まとめると、つくばセンタービルは「終わりを見つめる建築」。水戸芸術館は「終わりを越えて立ち上がる建築」。二つの建築は、崩壊と再構築の間に立つ人間の葛藤を、静かに示しているように思います。(元水戸市みとの魅力発信課長)