日曜日, 7月 26, 2026
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《邑から日本を見る》63 農家の暮らしとコロナ騒ぎ

【コラム・先﨑千尋】いつものように5日に田植えが終わった。5反(50アール)百姓だから、借りてきた4条植えの田植え機を手で押し、半日で終わる。親の代から「我が家のコメを食べる者は田植えには集まれ」と兄弟たちに言ってきたので、孫の世代も含めて17人も集まった。それぞれが植え継ぎ、寄せ植え、箱洗いなどを分担してやってくれる。

手植えのころは、結(ゆい)と言って親戚が集まり、互いの田んぼを交代で植えていくので、それこそにぎやかだった。嫁同士の植え方の優劣もよくわかった。苗も、今と違って苗代(なわしろ)で育て、暗いうちに手で取り、束ね、田んぼに運ぶ。子供も、苗運びや代掻(しろか)きをする牛馬の補助などの役割があった。

楽しみは小昼飯(こじゅうはん、なまって「こじはん」と言っていた)。塩の握り飯に切昆布と麩(ふ)の煮もの、漬物くらいしかなかったが、それでも、子供にとってはその時間が待ち遠しかった。今では、我が家のように大勢が集まる光景はほとんど見られない。大型の乗用田植え機で植えるので、ほとんど人手は要らない。水田地帯だと8条植え。あっという間に終わってしまう。だから小昼飯もない。

田んぼや畑にいると、コロナのことなど忘れてしまう。人にも会わないから、密閉、密集、密接の三密とは無縁である。米や野菜、みそなどはあるので、日常の暮らしにそんなに影響はない。不要不急の外出自粛とやらで、外に出ることがなくなり、客も来ない。安全、安心な暮らし方をしている。よけいな金も使わなくて済む。

都会はその脆さが浮き彫りに

逆に、都会はその脆(もろ)さ、生活の危うさ、苦しさが浮き彫りになって見えてくる。田畑から家に戻り、テレビをつけるとコロナのニュースばかりだ。クラスター、オーバーシュート、ロックダウンなど、これまで聞いたことがない言葉にとまどい、安倍首相や小池東京都知事のうつろな言葉に付き合わされる。

休業、営業自粛に追い込まれた人たち。医療崩壊を防ぐために、懸命に医療現場を支えているスタッフたち。人通りが極端に減った観光地。それぞれ大変な苦労をしている。

戦後の日本は、農林漁業という人間の生活に不可欠な産業を切り捨て、経済成長を目指し、結果として首都圏などに人口が集中した。吉幾三ではないが、「俺あこんな村いやだ 東京へ出るだ~」だ。農村の過疎と都市の過密は背中合わせの現象である。

オリンピックが来年開かれるかどうかはわからないが、今回のコロナ騒動はいずれ収束する。しかし、歴史が教えてくれているように、また同じようなことが確実に起きる。

コロナウイルスは、安倍首相が言う「戦う、打ち勝つ、撲滅する」相手ではない。人類はたかだか20万年の歴史しかないが、ウイルスは4億年前に生まれている。そして忘れてならないのは、「人間は自然界に生かされている生物の1種にすぎず、自然の支配者ではない」ということだ。ウイルスとの共生、一極集中からの転換。そんなことを考えながら、田植え機を動かしていた。(元瓜連町長)

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