日曜日, 7月 26, 2026
ホームつくば研究学園駅前でシニアが交流の輪 サロンゆうゆう 在宅医療の室生勝さん主宰

研究学園駅前でシニアが交流の輪 サロンゆうゆう 在宅医療の室生勝さん主宰

つくば市学園南、研究学園駅南口のマンション1階にシニア世代が交流できる「サロンゆうゆう」がある。主宰者は医師の室生勝さん(82)。脳トレやストレッチ、合唱などで心身をほぐしたり、乾燥肌や低温やけどといった身近な問題の対処法を学ぶことができる。

個性豊かで活力あるまちづくりに自主的に取り組む活動を応援する市の「アイラブつくばまちづくり」制度を活用したコミュニティサロンで、3年前に発足した。

室生さんは同市倉掛の診療所、室生内科開業時から30年以上、在宅医療の前線に立ってきた。閉院した現在も、高齢者のための講演会や相談などに精力的に活動している。

サロンは、新しい街に他市や他県から転居してきた高齢者の健康向上が目的。室生さんの長年の経験を生かした医療相談や、福祉や介護の情報を得ることもできる。高齢者の交遊コミュニティー「研究学園木遊会」と共催で運営している。

11月28日は、「転倒しそうになった時」の顛末(てんまつ)を語り合ったり、目覚めて体がこわばっている時のストレッチを室生さんが実際にやって見せた。約30人の参加者からは始終笑い声が聞かれ、老いと共にやってくる体の変化を前向きに捉える雰囲気に満ちていた。また顔見知りになった参加者同士のおしゃべりが弾み、サロンへの参加は外出を促す良い機会になっている。(橋立多美)

◆同サロンはレーベン研究学園1階の林技術事務所に設けられ、毎月第1、3月曜と第2、4火曜の午後1時~4時に開かれる。参加費100円。12月17日(日)午後2時からは「クリスマス・ハワイアンコンサート」が開催される。問い合わせは電話090-3331-4937室生さんまで。

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