土曜日, 2月 28, 2026
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ようこそ、無人島へ《短いおはなし》18

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写真は筆者

【ノベル・伊東葎花】

妻と2人で、無人島へ行く。

無人島だけど清潔なコテージがあり、冷暖房完備。冷蔵庫には必要な食材がある。

つまり、リゾート用に整備された無人島だ。

予約客は、1ツアー1組のみ。

島の存在は、ごく一部にしか知られていない。だから誰にも言わずに行く。

クルーザーで島に着いた。

美しい島だ。夜は星がきれいだろう。

「わあ、素敵なコテージ」

「明日まで、この島すべてが僕たちの物だ」

妻の肩を抱いてコテージのドアを開けた。

誰もいないはずなのに、物音がする。

中に入ると、僕たちと同じ世代の男女が、ソファーに座っている。

「誰だ?」

振り向いた男女は慌ててソファーから降りて、床に頭をこすりつけた。

「すみません。今日予約が入っていたのをすっかり忘れていました。すぐ出て行きます」

「どういうことだ?」

「実はこの家は、私たち夫婦の家です」

「ここは無人島だろう?」

「住んでいるのは私達だけです。この家の掃除や管理をしています」

「無人島じゃないなら、詐欺じゃないか」

「ですから、お客様が来る日は林の中の洞窟で寝泊まりしています。そういう約束で金をもらっているので、ツアー会社にはどうか内密に」

「わかったよ。さっさと出て行け」

「はい」と立ち上がった途端、女がフラフラと倒れた。

「すみません。ジメジメした洞窟暮らしで、すっかり病んでしまって」

女は青い顔で立ち上がった。さすがにちょっと胸が痛む。

「あなた。可哀想よ。泊めてあげたら」

妻が言った。確かにこのまま夫婦を追い出したら後味が悪い。

僕たちの邪魔をしないことを条件に、夫婦を泊めることにした。

夫婦は物音を立てず、僕たちの視界に入らないように気配を消した。それでいて、タオルやドリンクがさりげなく用意されている。有能な執事を雇った気分だ。

夕暮れ、海から戻ると、豪華なディナーが用意されていた。

テーブルには、夫婦からのメモがある。

『差し出がましいとは思いますが、泊めていただいたお礼です』

テーブルに並ぶ料理に、妻は大喜びだ。高級なワインも用意されている。

「後片付けもやってくれるかしら」

「やらせればいいさ。泊めてやったんだ」

僕たちは、いい気分で無人島の夜を楽しむ…はずだった。

目覚めると、もう陽が高い。いつの間にか眠っていたのだ。

ワインを2杯飲んだところで記憶が消えている。

「あなた、私たちの荷物がないわ。クルーザーの鍵もない」

「あいつらだ」

昨日の夫婦を探したが、どこにもいない。

急いで林の中の洞窟に行った。

生活していた後はあるが、夫婦はいなかった。

「あなた、手紙があるわ」

『次の管理人、お願いします。大丈夫。あなたたちのような、マヌケで親切な夫婦が来るまでの辛抱です。グッドラック』

やられた…。

(作家)

高校生4人、課題解決型インターンシップに挑戦 企業のSDGsを研究

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スライドでグラフを示しながら調査結果を発表する土浦日大高校1年のマレクさん(中央)

 

高校生を対象とした「課題解決型インターンシップ」が今夏、関彰商事(本社筑西市・つくば市)で実施され、23日、つくば市二の宮のつくば本社で成果報告会が催された。インターン生として参加したのは土浦日大高校1年のマレク・ラワハ・マナミさん、下館一高1年の富田にこさん、同2年の内山ひかりさん、茗溪学園高校1年の設楽桃さんの4人。報告会では集計したSDGsに関するアンケート結果の報告が行われたほか、同社の SDGsの取り組みを紹介するパンフレットの構成案が披露された。

課題解決型インターンシップは一般的なインターンシップの就労体験とは異なり、インターン生自身がテーマを設定し、受け入れ先でプロジェクトに加わり研究活動を行う。インターン生4人はSDGsを研究テーマに選び、同社は学生への情報発信に課題を感じていたことからインターン生に向けて「中学生に向けたSDGsのパンフレットを作成する」という課題を提示した。

7月から8月にかけて社員らとミーティングを重ねながら、在籍する高校や卒業した中学校の生徒を対象に県内の様々な企業の認知度やSDGsへの意識に関するアンケートを実施。また同社のオフィスや店舗を見学し、どのようなSDGsの取り組みを行っているかを調査した。

成果報告会ではアンケート結果を分析してまとめたスライドを示し、中高生の意識について分かったことを関正樹社長や社員らの前で発表し、質問に答えた。読み手となる中学生の意識を踏まえて考えたパンフレット案も披露。同社のカーボンニュートラルやダイバーシティ、スポーツを通じた地域活性化の取り組みなどを分かりやすく記載し、親しみやすいよう設楽さんが描いたイラストを添えた。今後、案をもとに同社で完成版を作って印刷し、中学生に配布する予定だという。

今回のインターンシップは、4月に開催された教育イベント「成蹊教育フォーラムinつくば」に参加したマレクさんが、登壇した関社長に「海外大学への進学を考えており、自己の成長につながる課題解決型のインターンシップを受けるにはどうしたらよいか」と相談したことがきっかけで実現した。近隣の高校に声掛けを行い、3校から4人の生徒がインターン生として参加した。

大学で経済学を学びたいというマレクさんは「参加したみんな違っていろんなスキルがあって、協力し合うことができた。このような経験ができ、この経験を生かしていけたら」と参加の感想を述べた。内山さんは「これまで1人で活動することが多かったが、年齢関係なく他の人の意見を聞くことはいいなと思った。SDGsへの理解が深まった」と話し、他者との協働から得た学びについて強調した。

関社長(中央)と、授与された修了証書を手にする高校生ら。左から富田にこさん、マレク・ラワハ・マナミさん、関社長、設楽桃さん、内山ひかりさん

同社では今後も高校生を対象にしたインターンシップを続けていきたいとしている。関社長は「(今回の報告会のように)大人だけでなく誰でも自由に意見を言い合える場所が必要。会社のあるべき姿であり、こういう場が将来日常になっていくだろう」と話し、一人一人にインターンシップの修了証書を手渡した。(田中めぐみ)

甲子園決勝 エンジョイ・ベースボール 《遊民通信》71

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【コラム・田口哲郎】

前略

夏の全国高校野球選手権大会の決勝に神奈川県代表の慶應義塾高校が進出し、昨年の優勝校である宮城県代表の仙台育英高校と対戦し、8対2で優勝しました。慶應義塾高校にとっては、実に107年ぶりの優勝ということになります。この年月の長さが高校野球の歴史を物語っていると言えるでしょう。最初に慶應高校が優勝したのは、1916年(大正5年)の第2回大会、旧制中学の慶應普通部時代です。高校野球黎明(れいめい)期で、学校がいまほど多くなく、野球をすること自体が先進的だったころです。

全国の旧制中学だった高校に通っていた出身者は母校の歴史を眺めたときに、母校が高校野球の全国大会の初期に出場していたことを見つけた人も多いのではないでしょうか。私の出身校の宮城県仙台第二高校も旧制二中時代、1925年(大正14年)に出場しています。初期の全国大会にはこうして全国の旧制中学、私立中学が名を連ねていました。

でも、いまはいわゆる強豪校が常連となっていて、初期に出場していた学校が甲子園にゆくことはほとんどないようです。そうした事情を思うと、慶應高校が103年ぶりに甲子園で決勝戦に進んだことには感慨深いものがあります。

あくまで勝ちにこだわる闘志こそ

慶應高校の「エンジョイ・ベースボール」というモットーも話題になっています。慶應の生徒がプレーしている様子をテレビで見ていると、笑顔が絶えず、和気あいあいとしているので、野球を「楽しむ」ことなのかと思います。

それはそうなのですが、それだけではなさそうです。『三田評論』という慶應義塾内の広報誌にエンジョイ・ベースボールの記事がありました。この言葉は慶應大学の野球部で脈々と受けつがれてきたもので、それを高校でも監督前田祐吉氏が本格的に使い始めたのだそうです。

モットーの起源は明治43年にさかのぼります。慶應野球部が2人の大リーガーを神戸に招いて合宿を行い、日本人が理論的、系統的に野球戦術を学んだ最初とされる出来事に由来するそうです(「【From Keio Museums】Enjoy Baseballの原点」)。チームワークとしての野球を考え、創意工夫をして、試合では「どこよりも闘争的に勝ちを求める」ことにより、それでこそ味わえるBaseballの楽しみこそがエンジョイ・ベースボールの真意なのだそうです。

ここには鬼気迫る真剣さがにじみでています。慶應の生徒たちの笑顔のうらにあるだろう、どの対戦相手にも負けない闘志、勝利の渇望が、楽しそうに見える不思議。この姿勢はなにも慶應の生徒だけが見せるものではないでしょう。これこそが、日本人が長らく高校球児に見てきた、青春の汗とかがやきなのかも知れません。

草々

(散歩好きの文明批評家)

いよいよ小屋暮らし【続・平熱日記】140

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絵は筆者 140

【コラム・斉藤裕之】寝るところと小さな流しと少し広めの机。できれば朝起きてから寝るまで気持ちの良い、春から冬までを楽しめる風景があること。話をする人が身近にいること。そんなところに住みたい。それはいったいどこだろう?と考えていた。

夏を故郷の山口で過ごす。生まれ育った市街の実家はもう売ってしまって今はもうないが、車で30分ばかり山に入ったところに弟の家がある。カナダでログハウスを作っていた弟は長女を連れて帰国した後、故郷に戻り地元の大工さんに弟子入りする。そして四半世紀ほど前、ここに土地を求め山を切り開いて家を建てた。やがてふたりの娘は巣立ち、今は夫婦2人暮らしだ。

夏が来るたびに私も2人の娘を連れてここにきて、よく海に連れて行ったりしたものだ。なにしろ山も海もあるしお金をかけずに遊べる。薪(まき)で沸かす風呂に娘たちがみんなで入ったり、バーベキューをしたり。夏でも夜は少し寒いくらいに涼しく、エアコンは要らない。しかし月日が経って、今やここに帰って来るのは私ひとりとなった。

仲のよい弟夫妻は趣味趣向が私と合っている。生活のリズムや休日の過ごし方、食べるもの、身の回りの物の趣味や経済観念など。

とりあえず今はやりの二拠点生活

先日弟夫妻が我が家にやって来た。茨城で私の知人の家を建てたりしたのを機に友人にも恵まれ、今回も地元のお祭りの日に宴を設けて楽しい夜を過ごしたりした。短い滞在ではあったけど、娘達のことや自分達の行く末などを話しているうちに、ごく自然とある結論にたどり着いた。

それは弟の敷地に私の小屋を建てること。幸い弟の家は広い敷地の中にあって、私が望むほどのささやかな小屋は十分に建つ。飯は一緒に食べればいいし、別棟の風呂は拝借することにする。余談だが、今の風呂をそろそろ作り直したいというので、庭に転がっている五右衛門風呂の釜を使って、この際風呂を新調しようということにもなった。

そして、とりあえずは今はやりの二拠点生活。その先のことは、またその都度考えればいいということで。

昔住んでいた浦和の別所沼公園に小屋が建っていたのを思い出した。とても気になるそのモダンな小屋は、詩人であり建築家の立原道造の「ヒアシンスハウス」。記憶はおぼろげにしかないのだが、寝るところと机と…、必要最小限のとても心地の良い空間だったような…。

弟の作業小屋には、解体現場から引き取ってきた古材や建具がストックされている。使えるものは使って建てる安価で質素な小屋。アスファルトの上より自然の中を散歩するのが大好きな犬の「パク」もきっと気に入るはずだ。(画家)

土浦日大 決勝進出ならず

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祈るような表情でスクリーンを見つめる生徒たち=土浦市小松ケ丘の土浦日大高校

甲子園で開催中の第105回全国高校野球選手権は21日、準決勝の第2試合で県代表の土浦日大が慶応(神奈川)と対戦。0-2で敗れ、県勢として20年ぶりの決勝進出は果たせなかった。土浦市小松ケ丘の土浦日大高校ではパブリックビューイング(PV)が催され、生徒や保護者ら261人が試合の行方を見守った。

土浦日大の誇る強力打線が、この日は最後まで爆発力を欠き、慶応の先発・小宅雅己を打ちあぐねた。特に、ひざ元のきわどいコースに決まる直球やカットボールに翻弄(ほんろう)された。

土浦日大の先発は準々決勝に続き伊藤彩斗。立ち上がりからいきなり無死二・三塁のピンチを背負うが、続く3人を打ち取って事なきを得る。しかし2回は安打と送りバントで2死二塁とされ、小宅の右中間への二塁打で先制を許す。これが小宅をさらに乗せてしまった。

3回にも慶応の先頭打者に安打を許し、送りバントと進塁打で2死三塁。土浦日大はここで2人目の藤本士生をマウンドへ送り、ピンチを切り抜けた。4回はこの試合唯一の3者凡退を奪ったが、5回以降は毎回先頭打者を出し、ランナーを背負う展開が続いた。

6回は先頭打者が左翼フェンス直撃の二塁打。送りバントで1死三塁とされ、次打者の大村昊澄には一度スクイズを失敗させるものの、高めに抜けたチェンジアップを右前に運ばれる。慶応は試合の流れを引き寄せる大きな1点を手にした。

土浦日大も2回と5回以外は毎回走者を出しながら、なかなか得点圏まで進塁できない。7回は初めて2死三塁のチャンスを作るが、6番・鈴木大和は内野フライに倒れた。8回は代打・飯田将生の内野安打と1番・中本佳吾の右前打で2死一・二塁とするが、2番・太刀川幸輝はレフトフライ。あと一打が出ないまま試合終了を迎えた。

「60周年に心が震えるほどの感動」

土浦日大高校のPV会場で一喜一憂する生徒や保護者、教職員らの様子をビデオカメラに収めていたのは、放送部の小島優也さん(2年)と田中瑞姫さん(2年)。この夏の野球部の活躍をドキュメンタリー作品にまとめ、10月のホームカミングデーのイベントで上映する予定だ。「8回表の中本くんのヒットや、8回裏の塚原さんのファウルフライキャッチでは会場が大きく沸き、とてもいい雰囲気だった。みんなのはらはらした表情や落ち込んだ様子など、日常では見られない緊迫感ある表情がたくさん撮れた」と話す。

赤松浩二副校長は「勝負の世界は厳しいが十分に誇れる内容。本当にいい試合だった。本校の創立60周年にこのような機会が持て、心が震えるほどの感動を与えてもらった。野球部が戻ったときは、ぜひ感動をありがとうという気持ちで迎えてほしい」と、会場に語りかけた。(池田充雄)

酷暑日に核廃絶と核抑止について考えた《吾妻カガミ》165

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霞ケ浦総合公園のハスの花「紹興紅蓮」

【コラム・坂本栄】先のG7広島サミットで、首脳たちは平和記念資料館を訪れて核被爆の悲惨さを見聞きし、核廃絶の必要性を痛感したはずです。それなのに、採択された声明では核兵器が持つ戦争抑止力を正当化しました。8月前半の新聞には、首脳たちの矛盾を指摘する記事も見られ、資料館訪問をお膳立てしながら声明の案文を作成した岸田政権も批判されていました。

核廃絶か?核抑止か? 核保有国、非保有国を問わず、首脳たちとっては頭の痛い問題であり、国際政治学者たちにとっても議論が尽きないテーマです。8月6日、広島での平和記念式典のテレビ中継を見ながら、「1945年夏の時点で日本が原爆を保有し、米国に対する核抑止力が効いていたら、原爆の投下はなかっただろうか?」と思い巡らしました。

米の原爆開発と理研/京大の研究

当時日本でも、理化学研究所(陸軍の命令と予算、中心は仁科芳雄博士)と京都大学核物理学研究室(海軍の命令と予算、中心は荒勝文策博士)が原爆開発を進めていました。しかし、いずれも研究の域を出ず、豊富な予算と人材を投入した米国の原爆開発(マンハッタン計画)にはとても及びませんでした。

完成した原爆を実戦で使うかどうか、米首脳は悩んだようです。しかし、その破壊力を日本に実感させて降伏に持ち込み地上戦を避けたい(米軍兵士の損耗回避)、巨額の開発費を使った原爆の力を実戦で確認してみたい(開発兵器の実証誘惑)、大戦後に主要な敵となるソ連の諸活動を抑制できる(冷戦想定の政略戦略)―などを総合判断、使用を決断したと伝えられています。

もし日本の原爆開発が実用レベルに達し、その情報が米首脳に届いていたら、不使用論「日本による核報復の可能性」が使用論「米軍兵士の損耗回避」「開発兵器の実証誘惑」「冷戦想定の政略戦略」を抑え、原爆投下をためらっていたかもしれません。

ウクライナに核が残っていたら?

現在進行中のロシアのウクライナ侵略でも、ソ連崩壊後、ウクライナに配備されていた核兵器をウクライナが継承・管理していれば、ロシアは核報復を恐れて侵攻しなかっただろうとの指摘があります。対ロシア核抑止力が効いたはずとの見方です。

ロシア・ウクライナ戦の現実は、G7を中心とする通常兵器の支援もあり、志気が高いウクライナ軍がロシア軍を押し返し、慌てたロシアは隣国ベラルーシに戦場で使う戦術核を配備し、ウクライナをけん制するという妙な展開になっています。いずれやってくる停戦交渉をにらんだカードなのでしょう。

核廃絶と核抑止は厄介な問題です。日本の場合、抑止力として米国の核の傘が差し掛けられています。しかし、78年前のように冷徹な判断を下す米国のこと、この枠組みが不変と考えない方がよいでしょう。岸田さんは「核被爆の悲惨さ確認」と「核抑止力の正当化」をセットで演出しましたが、そのケタ外れの破壊力を再確認して帰った首脳もいたかもしれません。(経済ジャーナリスト、戦史研究者)

筑波大学医学群発 「花火の力」療法《見上げてごらん!》17

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子どもたちが描いた絵と花火(つくばけやきっず提供)。左から「虹はなび」「カエル」「花畑」「流れ星」

【コラム・小泉裕司】千紫万紅(せんしばんこう)のごとく夜空を彩る打ち上げ花火は、見上げる人の心に「感動」や「癒やし」をもたらしてくれる。この「セラピー効果」は、「花火の力」そのものではないか。

筑波大生が学園祭で花火企画

今回は、筑波大学「雙峰祭(そうほうさい)」の花火イベント、第11回「ゆめ花火」を企画運営する同大医学群学生団体「つくばけやきっず」(構成員38人)の活動を紹介しよう。

「ゆめ花火」は2011年、同大医学系学生サークル「賢謙楽学」と「花火研究会」が共同して、同大付属病院で病気と闘う子どもたちを励まそうと、雙峰祭の後夜祭で花火を打ち上げたのが始まり。同病院小児科で闘病中の子どもたちの活動支援を行う「けやきっず」がこの活動を引継ぎ、今日に至る。

今年は、11月8日午後8時30分から、大学構内「虹の広場」で打ち上げ、観覧場所は後夜祭会場の「石の広場」。「ゆめ花火」60発、ミュージックスターマイン200発を計画している。子供たちには会場内特別ブースで楽しんでもらうという。

子どもたちの描いた絵を花火に

花火の形は、子どもたちが思い思いに描いた絵を夜空に再現するというもので、いわゆる「型物花火」といわれる種類の花火。大きさは4号玉(直径12センチ)を使用するとのこと。

第1回から花火づくりを担当する山﨑煙火製造所(つくば市、山﨑智弘社長)の花火師さんは、原画をできるだけ忠実に再現できるよう熟練の技術を傾注するとのこと。型物花火の難しさは、観客側から意図した形が見えるかがポイント。ひとつのデザインに3発使用するのはそのためだろう。子どもたちが大好きな曲に乗せて打ち上げる工夫も欠かせないという。

花火を見た子どもたちのアンケートには「絵が本物の花火になって最高の思い出だった」「辛い闘病生活だったけど花火を見てまた明日から頑張れる」「涙が出るほど感動した」などと。ご家族からは「娘にも私にも勇気を与えてくれた」などの感想が届いている。

現在、小児科病棟や外来で「絵集め」の真っ最中で、全てをどうにか花火として打ち上げたい!と思わせてくれるものばかりだそうだ。

闘病中の子どもに夢と希望を

「ゆめ花火」にかかる費用は、クラウドファンディング「闘病に励む子どもたちに、笑顔と希望の「ゆめ花火」を!」で募っている。筆者も応じてはいるが、昨今の火薬類や諸経費の価格高騰に対応するためには、募集終了日まで残り15日。あともう一踏ん張りというところ。

代表の穗戸田勇一さん(34)=医学類5年=は「第1回を『花火研究会』側で始めた自分が、今度は『つくばけやきっず』側で再び携わることにも感動している。今年はコロナの落ち着きもあって、たくさんの絵が集まっている。子どもたちに夢と希望を与えられるよう、最後まで精一杯駆け抜けるつもり。皆さんのご支援を心からお願いしたい」と話す。

穗戸田さんは、「花火プロデューサー」として、県内外の花火大会の企画運営にも携わるなど八面六臂(ろっぴ)の忙しい毎日を送る。

30年ほど前、3歳の娘が白血病で入院。脊髄注射など小さな体にはかわいそうすぎて目を背けたくなる辛い治療の3年間を、無菌室で過ごした。打たれ弱い筆者は、明日が見えない不安を抱きながら、下を向いて歩く日々が続いた。

「ゆめ花火」発案者の穗戸田さんが、30年前にワープしてくれていたら、「花火の力」療法で、少しでも前を向くことができていたのかもしれない! ちなみに娘は、医療スタッフのご尽力で寛解に至り、元気でいてくれるのが何より。本日は、この辺で「打ち止めー」。「ドン ドーン!」。(花火鑑賞士、元土浦市副市長)

土浦日大 地域の期待背負いベスト4

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選手の好プレーに沸く土浦日大高校のパブリックビューイング会場=土浦市小松ケ丘

甲子園で開催中の第105回全国高校野球選手権は19日、準々決勝の第2試合で県代表の土浦日大が八戸学院光星(青森)と対戦。9-2で勝利し、準決勝に駒を進めた。土浦市小松ケ丘の土浦日大高校ではパブリックビューイング(PV)が催され、生徒や保護者ら約70人が勝利の喜びに沸いた。

土浦日大の快進撃が止まらない。まずは3回、相手投手の乱れを見逃さなかった。2四球と送りバントで2死一・二塁から3番 後藤陽人の中前打で1点を先制。死球で満塁とした後、5番 松田陽斗の中前打で2点を加えた。八戸学院光星は4回と5回に内野ゴロで1点ずつを挙げ、じりじりと追い上げるが、6回に土浦日大はビッグチャンスを迎えた。

投手の替わりばなを捉え、先頭の松田と6番 塚原歩生真が右翼へ連続安打。1死一・三塁から8番 鈴木大和がスクイズを決め1点をもぎ取る。出鼻をくじかれた相手投手は2者連続四球を与え2死満塁。ここで2番 太刀川幸輝の右越え3塁打が飛び出し3点を追加。さらに後藤の中前打で1点を加えた。

リードを大きく広げた土浦日大は9回にも追加点。松田が甲子園で2本目となるソロ本塁打をバックスクリーン左へ放り込んだ。

投手は先発の伊藤彩斗から4回途中に藤本士生へつなぎ、今日も危なげない投球内容だった。

土浦日大高校では、土曜日とあって生徒の数はそれほどでもなかったが、代わりに保護者が多く集まった。「仕事が休みなので応援に来られた。PVは一体感が素晴らしい」と話す北村祟史さん(51)、知美さん(42)夫妻。ここまでの戦いについて「今度こそだめかもと思いつつ、毎回逆転してくれるのがうれしい」と話し、試合後は「藤本の安定感が光った。守りも固く、打線もつないでくれた。次も期待したい」と喜びの声。

最前列で応援していた仁平千陽さん(1年)は「迫力があって感動した。伊藤投手と藤本投手が、相手に隙を見せず投げていたのがすごいと思った。次も最後まであきらめない心で、自分の力を信じて頑張ってほしい」とエールを送った。

学校には応援メッセージも数多く届いているという。星野恵美子教頭は「甲子園の校歌はすごい。皆さんが期待してくれているということを実感でき、うれしく思っている。選手たちも試合ごとに団結力や精神力が高まり、一歩一歩強くなってきている。次も勝てるよう精一杯応援したい」と話した。

次の準決勝は21日、第2試合で慶應(神奈川)と対戦する。(池田充雄)

アストロプラネッツ 巨人に屈辱の大敗

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5回裏茨城2死、益子がこの日2本目のヒットを中前へ放つ(撮影/高橋浩一)

プロ野球独立リーグ・ルートインBCリーグの茨城アストロプラネッツは18日、土浦市川口のJ:COMスタジアム土浦で、NPB(日本野球機構)との交流戦として読売ジャイアンツ3軍と対戦し、0-10で敗れた。これで公式戦5連勝の後、4連敗。通算成績は20勝38敗1分で南地区4位。今季残り試合はあと7つ。4.5差で追う3位神奈川との差を少しでも詰めたいところだ。

【ルートインBCリーグ2023公式戦】
茨城アストロプラネッツ-読売ジャイアンツ3軍
(8月18日、J:COMスタジアム土浦)
巨人 030050200 10
茨城 000000000 0

茨城は2回、先発投手の佐藤友紀が2四球と2安打で3点を献上。その後も流れを戻せず2回2死で降板。ゲームプランを大きく狂わせた。その後は8人の投手が継投するも、5回には3人目の伊藤龍介が4連打を浴び2点を奪われ、4人目の巽真吾は初球を3ランホームランとされる。7回には6人目・有馬拓の暴投と野手の悪送球で2点を失った。

放った安打数は巨人が10、茨城が9とほぼ互角、失策数は互いに1。何が勝負を分けたかというと四球数だ。巨人の0に対し茨城は13。ランナーをためてしまったところでの1本が大きなダメージになった。

「四球はある程度仕方がない部分もある。ボールを置きに行ってアウトを取っても評価されない。マウンドで全力で腕を振り、いいチャレンジができたかどうかが重要。ただし今日はNPBのチーム相手に、自分の球をストライクゾーンに投げて勝負できなかった投手が多かった印象がある」と巽兼任コーチ。

チャレンジ不足は打撃陣にもあった。せっかくヒットが出ても積極的に次の塁を狙おうとせず、結局得点に結び付かなかった場面がいくつかあった。「うちはチャレンジした上での失敗ならOKのチーム。なのにその準備ができていない。反省すべきところ」と伊藤悠一監督。「今年のチームは良くも悪くも雰囲気に流されやすく、それが連勝や連敗に結び付いている。だから序盤に食らいついて、今日は行けるという雰囲気を作ることが大事」

この日2安打を放ち敢闘賞に輝いた益子侑也(ひたちなか市生まれ、霞ケ浦高出身)はチームについて「勢いはあるし状態も悪くない。後は打たれても下を向かず、取られる点を抑えられれば。残り試合も少ないがみんなが一つになり、もっとやれるところをお客さんに見てもらいたい」と話した。

試合前にはチアダンスチーム「ベガスダンサーズ」のパフォーマンスに続き、土浦二高創作舞踊部のスペシャルパフォーマンスも行われた。創作舞踊部は土浦二高の創立した1903年からあるという伝統ある部。ベガスダンサーズの山口悠起子キャプテンは以前も指導に係わっていたことがあるが、昨年の部活動指導員制度の導入に伴い、再び声がかかったという。「ダンスは未経験の子が多かったが、みんな非常に真面目で、一つ一つの作品に一生懸命取り組んでくれた」と山口さん。「基礎からすごいダンスの技術まで、また、あいさつや社会に出るための礼儀なども教えていただいた」と主将の城野花咲さん(2年)。

土浦二高創作舞踊部のスペシャルパフォーマンス(同)

この日はメンバー11人が「フットルース」の音楽に合わせ、ベガスダンサーズ譲りのキレの良い踊りを一糸乱れず披露。「高校生ではなかなか踊れない、すごい舞台で踊ることができた。いつもと違って緊張したが、試合前の選手を少しでも盛り上げることができてよかった」と副主将の林美久さん(2年)。

このほかグラウンドでは、アストロプラネッツと関彰商事野球部の合同による少年野球教室なども開かれた。(池田充雄)

アストロプラネッツと関彰商事野球部の合同野球教室(同)


  

世界の見え方 《続・気軽にSOS》139

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【コラム・浅井和幸】AさんとBさんは仲が悪く、いつもけんかをしていました。Aさんは、Bさんがいつも自分の悪口を言っていて、嫌がらせばかりしてくると言っています。Bさんは、Aさんは些細(ささい)なBさんの言動に文句を言ってきて、いつもBさんのことを見張っていると言っています。

それぞれは、相手を分析し、自分としては何も思っていないのに、相手が自分のことが嫌いだからわざわざ嫌なことをしてくる、そして、AさんBさんのどちらも、相手は自分にだけそのような悪い言動をしてくるのだ―と主張します。

ですが、それぞれの相手に対する分析はことごとく間違っていました。Aさんは、誰に対しても相手がより良い行動をとれるようにと、口出しをしてしまう人でした。Bさんは、誰に対しても直接悪口を言う人でした。

ただ、他の人はこの2人を避けるような行動をとることに比べて、AさんとBさんは接する機会が多く、さらには自分から寄っていき、小さなことが流せずに、コミュニケーションをとるとエスカレートしてけんかになる2人でした。

ここで面白いと言ったら、真剣な2人には失礼ではありますが、気にかかるところがあります。それは、それぞれの相手に対する評価や推測が間違っているのです。例えば「相手は自分にだけしてくる」とか、「いつも嫌がらせを考えている」とか、「田舎者だからしてくる」など。

もうひとつ面白いのは、もう関わりたくないと何度も言いつつ、自分から近づいて行ったり、長い時間を共にしたり、手紙のやり取りをしたり、相手を正そうとしたり―と、はたから見ると、積極的に関わろうとしているような行動をとるのです。

「防衛機制」の「投影」

人は不快なものを取り除こうと、不快なものを意識し続けるという特徴があります。また、悪い奴が変わるべきで、自分は悪いことは一つもないのだから、何も変わらないと主張する人も多数います。それに加えて、悪い奴をやり込めてやろうという気持ちも出てきます。このようなことから、嫌なものに近づいていき、悪循環を起こすのです。

また、「防衛機制」という言葉を保健体育で習ったかと思います。ストレスから自分を守る機能なのですが、その中で「投影」というものがあります。自分自身を守るために、自分の性格や言動を認めず、相手に自分の悪い面を押し付けるような心の動きです。

自分が相手のことを嫌いだった場合、相手が自分を嫌いだと思い込むことです(ストーカーは、自分が好きな対象が、自分のことを好きであると思い込んで対象に執着していきます)。自分がしている嫌がらせはさておき、相手がよりひどい嫌がらせをしてくるという考えに至ります。犯罪者は被害者意識が高いということは、よく知られている事実です。

世界は苦しいものだ、人間はずるいものだ、日本は弱い者いじめが好きだ、あいつは常識がない―と思ったことは誰にでもあるでしょう。さて、それは本当に対象がそのような状態なのでしょうか? それとも自分自身がそのような状態で、対象に自分の嫌な部分をなすり付けていないでしょうか?(精神保健福祉士)

4年ぶり、境内に1万人ひしめく 土浦 からかさ万灯

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4年ぶりに開催されたからかさ万灯=土浦市大畑、鷲神社

土浦市大畑、鷲(わし)神社で17日、国選択・県指定無形民俗文化財の「からかさ万灯」が4年ぶりに開催された。仕掛け花火を奉納する地域の民俗行事で、例年8月15日の夜に開催されているが、今年は台風7号の影響で17日に延期された。4年ぶりの開催に約1万人が来場し境内はひしめき合った。

午後7時30分、地元のお囃子太鼓や打ち上げ花火が披露された後、安藤真理子土浦市長が来賓を代表してあいさつ。午後8時、離れた場所から導火線の綱火に点火され、からかさ万灯に火が着いた。高さ6メートル、直径5メートルのかさから色鮮やかな花火が勢いよく雨のように降り注ぎ、火の粉が光の芸術を作り出した。例年、点火は午後9時頃だが、今年は1時間早く、見逃した人もいたという。

からかさ万灯の始まりは、江戸時代中期頃といわれる。大畑地域は夏になると干ばつに苦しめられ、雨乞いを祈願した仕掛け花火「からかさ万灯」を神社に奉納して五穀豊穣を願ったと伝えられている。

見学に訪れた同市田土部の本橋英昭さん(57)は「4年間見ることが出来なくて寂しかった。今年は大勢集まり、無事、素晴らしい仕掛け花火を見ることができた。200年以上も続いているので、ずっと継続して欲しいと」述べた。地元のお年寄りは「儀式が終わって、ざあーっと雨が降ってくると大成功なんだ」などと話していた。(榎田智司)

トランスジェンダーの友人と語る教育《電動車いすから見た景色》45

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イラストは筆者

【コラム・川端舞】来月、あるイベントで、高校時代の友人と対談する。友人は、出生時に割り当てられた性は女性だが、男性として生きるトランスジェンダー男性だ。高校卒業後10年以上たってから再会し、互いの子ども時代を語り合う中で、今の学校で障害児やLGBTQの子どもたちが過ごしづらいのは、多様な子どもたちがいることを前提に学校がつくられていないからではと感じた。

障害者とトランスジェンダーが教育について一緒に話すことで、今の学校が抱える根本的問題が見えてくるのではと思い、今回のイベントを企画した。

公の場で友人と話すのなら、トランスジェンダーに対する基礎知識は持っておきたいと、書籍を複数購入した。一言に「トランスジェンダー」と言っても、当然、全く同じ人間は存在しないし、差別をより受けやすいトランスジェンダー女性の経験は、トランスジェンダー男性とはまた違う部分もあるはずだから、過度な一般化はせずに、できるだけ冷静に読んでいきたいと思う。

しかし、読み進めるうちに、「この部分は、友人はどうなのだろう」と、無意識に友人との対比で考えてしまう。そんな自分に気づき、苦笑する。子どもの頃、同じ学校に運動障害のある子どもは自分1人だけという環境で育ち、周囲から「理想の障害児」像を押しつけられることに辟易(へいえき)していたのに、同じことを友人にやっているのではないか。

互いのしんどさを同じ俎上に載せる

一方、私にとって一番身近なトランスジェンダーは友人だ。実際のトランスジェンダーが生きているのは、本やテレビの中ではなく、私たちが暮らす現実世界だ。友人が普段、身近で経験する差別について知り、そんな社会を一緒に変えていきたいから、差別を生み出す社会構造について本で勉強する。これは間違ったことではないのかもしれない。

トランスジェンダーは人口の0.7パーセントほどしかおらず、出会ったことがないと思っている人も多いだろう。しかし、全校生徒300人の学校なら2人はトランスジェンダーの生徒がいる計算だ。男女に分けるのが当然とされる学校で、見えなくさせられているだけだ。かつて、重度障害児として普通学校で育った私が、障害児がいない前提で進められる授業の中で、必死に自分という存在を消していたように。

もちろん、友人はトランスジェンダーの代表でなければ、私は障害者の代表でもない。ただ、子ども時代に互いが感じていたしんどさを同じ俎上(そじょう)に載せることで、今の学校にある課題が見えてくるはずだ。(障害当事者)

土浦日大、専大松戸を破り8強入り

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土浦日大高校のパブリックビューイング会場で、甲子園にいる仲間と声を合わせて校歌を歌う生徒たち=土浦市小松ケ丘町

甲子園で開催中の第105回全国高校野球選手権は16日、3回戦の第4試合で県代表の土浦日大が登場。10-6の逆転勝ちで仙台松戸(千葉)との「常磐線ダービー」を制し、ベスト8に進出した。土浦市小松ケ丘の土浦日大高校ではパブリックビューイング(PV)が催され、スクリーンに映る白球の行方に生徒ら約120人が一喜一憂した。

県大会決勝や甲子園1回戦などに続き、またも土浦日大の集中打が逆転勝利を引き寄せた。6点を先行された3回、1番からの好打順を迎え、まずは中本佳吾、太刀川幸輝、後藤陽人の3連打で無死満塁。4番・香取蒼太の左前打で1点を返し、5番・松田陽斗の打球は敵失を誘い2者生還。6番・鈴木大和の打球はセカンドへの内野安打だが、ボールが野手のグラブをはじき、ファウルグラウンドにこぼれたのを見て、2人目の走者松田も本塁へ突入。一挙5点を挙げ、1点差へ詰め寄った。

4回には中本が四球を選び、後藤が内野安打で2死一・二塁。ここで投手交代があり、2人目の梅澤翔大から香取が左前適時打を放ち、6-6の同点とした。

そして5回。先頭の鈴木が左前打、8番・大井駿一郎が死球、9番・藤本士生が左前打で1死満塁。2死後、太刀川の死球で押し出しの1点を加え、ついに逆転に成功。後藤の左前適時打で2点を追加、9-6と3点差をつける。

8回には鈴木と7番 塚原歩生真の連続安打に大井の四球で2死満塁、藤本の中前適時打でさらに1点を加えた。

投手陣は専大松戸打線の選球眼の良さや、機動力を生かした攻撃を受け後手に回り、先発の小森勇凛は0回2/3、2人目の伊藤彩斗は2回0/3と早々とマウンドを去ったが、3人目の藤本が3回途中から9回までを5安打無失点に抑える活躍。エースの貫禄を見せた。

気持ちが一つに

PVで観戦した土浦日大の中島駿介さん(3年)は藤本のクラスメート。「教室にいるときの穏やかな姿とは違って、迫力あるピッチングが見られた。ここまで来たら優勝してほしい。たくさんの人が応援しているので、その気持ちを背負って頑張ってほしい」と話した。

東海林一輝さん(2年)は「こういう機会はなかなかない。野球部と気持ちが一つになって応援に力が入った。先に失点してみんな気持ちが沈んだが、ヒットをつないで5点を取ってくれたところがすごかった。次の試合も頑張ってほしい」と期待を込めた。

台風の影響で新幹線が動かず、甲子園へ行くのを断念してPVに来たという堀田恵美子さん(54)と雪斗さん(3年)親子は「現地で応援できず残念だが、こういう場所で応援できたのも良かった。勝ってくれたので次は甲子園へ行って応援できる」と、楽しみが増えた様子だ。

次の準々決勝は19日、第2試合で八戸学院光星と対戦する。(池田充雄)

皆さんと初顔合わせした「金太楼鮨」《ご飯は世界を救う》57

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金太楼鮨

【コラム・川浪せつ子】近場でも知らない飲食店さんがたくさんあることに驚きます。今回のお店、「金太郎鮨」(つくば市東新井)もその一つ。知るきっかけになったのは、自分勝手な思いつきからでした。

昨冬、実母が没した年齢を超えました。長生きの家系だったにもかかわらず、思いのほか早く天に召されました。建築パース(外観イラスト)の仕事をまだしようと思っていましたが、母の闘病、余命宣告の年齢を超え、命の限りあることをつくづく感じ、絵に集中したいと思うようになりました。

そして昨年から、終活ならぬ「水彩活」を始めることに。牛久の水彩画家Tさんと、2回目にお会いしたとき、「一緒に展示会させてもらえませんか?」と、むちゃブリ。「僕でいいのですか?」。そんな謙虚な方。それで気をよくし、茎崎のIさんにも声かけたら、またまた「いいですよ」

今秋、茎崎のギャラリーで展覧会

それでつけ上がった私は、Iさんに「土浦市のOさん、茎崎のSさんもお誘いしたいのですが」とお願い。実はOさんとは話をしたこともなく、今年93歳になる水彩画家K先生と一緒に展覧会にいらしていた、Oさんの絵がステキだと思ったからです。

Sさんは、いろいろな場所で展覧会されていました。その後お会いし、人柄にもひかれました。幸運なことに、皆さんと今年10月末からSさんのギャラリーで展覧会を開くことになりました。皆さん水彩画のキャリアも長く、私はお教えいただくことばかり。つくば市に来て41年。やっと、私の念願だった絵の話ができる方々に出会うことができました。感謝しかありません。

ところで、なんで「金太楼鮨」さん?ですよね。Oさんのお勧めで、5人で初めて顔合わせした場所です。そして、私のお気に入りになりました。(イラストレーター)

金太楼鮨のばくだん丼

女学生の頃は飛行機を作った【語り継ぐ 戦後78年】4

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榎田きよ子さん

つくば市 榎田きよ子さん

記者の母親、つくば市の榎田きよ子は94歳になる。記者は母との会話の中で断片的に「女学生の頃は飛行機を作った」と何度も聞かされていた。母は78年前、土浦高等女学校(土浦高女、現在の土浦二高)に通う女学生だった。その時代をどのように過ごしてきたか、今回改めて戦争体験を詳しく聞いた。

母は旧姓を松本といい、1929年(昭和4)年に九重村(現在のつくば市倉掛)で生まれた。1941(昭和16)年に土浦高女に入学、入学の年に太平洋戦争が始まり、戦火が悪化する時代を駆け抜けていく。

4年生になった1944年、授業が無くなり、学徒勤労動員で飛行機を作る工場に行き働くことになる。工場は土浦市中高津にあった中村鉄工所で、寮に入り勤務した。

学徒動員は全国で行われたが、隣の阿見町に、東洋一の航空基地といわれた霞ケ浦海軍航空隊や土浦海軍航空隊(予科練)があった土浦は特別な地域だったのだろう。母が動員された工場は第一海軍航空廠(一空廠)が管轄した。土浦高女からは母を含め3年生から5年生の485人が配属された。土浦一中の中学生、多賀高専の学生のほか大学生もいた。

1カ月ほど電気ドリルの使い方などの研修を受けた後、実際の飛行機作りを始める。8人がグループになり、工員の指導で鋲(びょう)打ち、穴開けなどをした。まだ15、16歳の少女たちが、飛行機のジェラルミン胴体部分を作った。作られた飛行機は特攻兵器の「桜花(おうか)」で、着陸するための車輪もなく体当たりするための飛行機だった。目的も知らず、言われるがままに作業を続けた。

寮生活は、就寝時に海軍式の点呼をとり、規律ある生活ではあったが、食事がまずくて量も少なかった。布団にはほとんど綿が入っておらず寒かった。土曜日には自宅に帰ることが許された。寮に戻る際、実家の母は娘がひもじい思いをしないようにおにぎりとサツマイモを持たせてくれたが、何日も持たなかった。

工場に行って3カ月経った頃、生理が止まってしまった。あまりの環境の変化に体が付いていかなかったのだという。徹夜の作業を強いられた日もあった。作業中に寝てしまい、担当の教員から「松本、眠いか」と気遣いの言葉を掛けてもらったこともあった。寮生活はつらく苦しい思い出が多かったが、同世代の若い娘が集まっていて、楽しかった瞬間もあったと振り返る。

学徒動員で工場に集まった土浦高等女学校の生徒ら

空襲警報が鳴ると工場近くにある防空壕に入った。中は電球が付いており、読書をすることも出来た。工場で出る弁当は木の箱で出来ていて「コーリャン(キビ)弁当」と言い、おいしいものではなかった。

何カ月か経ち、父兄や教職員が軍に交渉をして自宅から通うことを許された。距離が12キロもあり、帰り道、米軍の機銃掃射に遭遇したこともあった。

1945年2月、通っていた工場が米グラマン機の爆撃を受けた。日本海軍の零戦がグラマン機を追い掛けたが、墜落したのは零戦だった。工場は使用できなくなり、市内の小松地区の山中に移り作業を続けることになった。

3月10日の東京大空襲は、自宅から南の空が真っ赤になっているのが見えた。戦争が激しさを増す中、夜は電気に黒い布をかぶせて明かりがもれないようにした。

終戦の日の8月15日は暑い日だった。工場の生徒たち皆が整列して玉音放送を聞いた。内容は分からなかったが、少尉が刀を振り回して「日本は負けた」と言い、戦争が終わったことを知った。

敗戦の報を受けて、作りかけの飛行機の部品を全部、地中に埋めた。次の日から工場勤務は無くなり、20日間の夏休みになった。

実家にいる兄はつくば市館野の高層気象台に勤務していた。終戦間際に急に出張が多くなり、家族が不思議がっていたが、聞いても教えてくれなかった。戦後しばらく経ってから、風船爆弾の秘密任務のため富士山まで行っていたことを明かした。

9月10日頃、授業が再開され、学校に戻った。実家にあった蔵は当時、軍隊の倉庫として接収され、海軍の布団や毛布、鮭の缶詰がたくさん入っていた。母は、どうしてもそれが食べたくてしょうがなかったが、回収に来て食べられなかったと話す。

戦後も厳しい時代が続いた。履物がなくて学校の先生もげたをはいていた。コメは一定量を政府が徴集する供出制が続き、金を持っていても、ものがなかった。

ひもじい時代がしばらく続いたが、土浦高女を卒業後は、焼野原の新宿にあった文化服装学院に通った。22歳の時、シベリア抑留から帰って間もない父と結婚。現在、田井村臼井(現在のつくば市臼井)に住む。

母はテレビで戦争の映像が流れるたびに「目を覆いたくなる」と言い、「良い戦争なんて絶対にない。どんな理由があろうとも戦争は反対」と言う。

60歳過ぎに俳句を始めて30年経ったころから、戦争の句を作るようになった。

十二月八日は小学六年生(開戦記念日)

八月の胸の奥処の十五日

桜花てふヒコーキありぬ敗戦忌

(榎田智司)

終わり

「静かなお盆でおめでとうございます」 《訪問医は見た!》2

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筆者の友人が描いたイラスト

【コラム・平野国美】私の生業(なりわい)「訪問診療」は、依頼された各家庭にお邪魔しまして、定期的に診察を行うものです。しかし、これには義務がありまして、その患者さんに24時間対応をしなくてはなりません。熱が出た、腹が痛い、夜独りで淋しい―まで、多彩です。

電話の対応で済むことも多いのですが、出向かなくては済まないことも多々あるのです。当然、患者さんの最期に立ち会わなくてはなりません。今、ひと月に30名近くの看(み)取り、つまり最期に立ち会うわけでして、縛りが多いのです。

開業当初は、私独りで行っておりましたので、普段の生活を楽しむ余裕はありませんでした。しかし、今までに6000軒ほどの家にお邪魔し、患者さんに関わる家族や関係者と話すのは、辛いことも多いのですが、色々な気づきや発見もあります。

20年前、この仕事を始めたころ、農村地帯ではお盆の行事や飾りを見ました。そして、親戚や知り合いがあいさつに訪れる風景を見ながら、診察しておりました。そのときの来客者のあいさつが、いまだに耳を離れません。正座をして深々と頭を下げ、「静かなお盆でおめでとうございます」

「初盆でおさみしゅうございます」

今の時代、このあいさつを知らぬ方も多いと思います。正月でなく、お盆におめでとう? でも昔は、このあいさつが普通に見られたのです。この家に、この1年間、不幸が無くてよかったという意味合いのあいさつだそうです。皆さん、ご存じでしたか? 知らなかったのは私だけではないと思います。

この感動から20年後、このあいさつの対極にある風景を見ました。それは「初盆でおさみしゅうございます」。再び痺れました。確かに、この家では今回が初盆。来客者は神妙な顔つきで正座し、あいさつをします。

昔は普通に、このあいさつも交わされていたようです。遠州三河地区では、盆義理と言われる習慣として残っているそうです。

最近では、新型コロナウイルスによって葬儀や通夜が簡素化され、人を多く集めない形に変わってきました。盆踊りの行事も見なくなりました。お盆のあいさつに、親せき宅や近所を回る習慣も大分消えています。日本人の共同体(コミュニティー)には、そこに生きる人だけでなく、取り巻く自然や死者も一緒になる独特の文化があります。

私の生業は各家庭の玄関を入ってからの仕事です。私の感覚が正常に機能していれば、どこか遠くへ旅に行くことなく、地元で新しい発見をし、感動が手に入ります。「静かなお盆で、おめでとうございます」。このあいさつ、残したいものです。(訪問診療医師)

乗客降ろさず停留所を通過 つくバス また不適正運行

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つくば市役所

つくば市は14日、市のコミュニティバス「つくバス」(運行・関東鉄道)で13日夕方、降車ボタンが押されていたにもかかわらず、運転手が乗客2人を停留所で降車させず、さらに運賃を多く受け取ったと発表した。

市総合交通政策課によると、研究学園駅午後6時10分発寺具行きの作岡シャトル下り26便で、13日午後6時30分ごろ、親子連れの乗客2人が高野という停留所で降りようと、降車ボタンを押していたにもかかわらず、運転手が気づかず、停留所を通過した。運転手は、次の停留所である皆畑に音声案内を切り替えた際、降車ボタンが押されていたことに気付き、高野を約30メートル過ぎた先で乗客2人を降ろした。

この際、乗客2人は次の皆畑までの運賃を支払ったため、2人合わせて150円が過払いとなった。

同課によると、降車ボタンが押されると、車内にアナウンスされると同時に、運転席の視界に入る位置にある降車確認ランプがピンク色に光るが、運転手は気付かなかったという。

翌14日、乗客から市に連絡があり、不適正運行が発覚した。

つくバス作岡シャトルでは7月17日にも、つくば市役所の停留所で降りようとして乗客が降車ボタンを押したにもかかわらず、運転手が降車確認ランプを見過ごし、乗客1人が市役所で降車できない事案が発生したばかり。7月に続き同様の事案が発生したことから市は、つくバスを運行する関東鉄道に対し、安心・安全な運行と、不適正事案が生じた際の市への迅速な報告を徹底するよう強く申し入れたとしている。

150円の運賃過払いについては、14日に市に連絡があった際、乗客は名前を名乗らなかったことから、乗客から返金の求めがあった場合は、関東鉄道の営業所などで返金するとしている。

命令され その通り実行するのが役目だった【語り継ぐ 戦後78年】3

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相原輝雄さん

土浦市 相原輝雄さん

土浦市に住む相原輝雄さん(97)は18歳になった1944年、予科練(海軍飛行予科練習生)甲第14期生として海軍に入隊した。父親は東京・品川でクリーニング店を営んでいた。「当時、若い人は軍隊に行くのが華だったし、戦争に行ってアメリカをやっつけるのは当たり前という雰囲気だった」。

最初は奈良県丹波市町(現在の天理市)にあった三重海軍航空隊奈良分遣隊(ぶんけんたい)で基礎訓練を受けた。天理教の信者詰所を接収して発足させた分遣隊で、同期の甲14期生は1000人くらいいたと記憶している。海軍の寝床は吊り床(ハンモック)だと聞いていたが、天理教の詰所だったことから寝具はわら布団だった。

入隊直後は古参の兵長が相原さんら40~50人の指導に当たった。下着から文具まですべて用意してくれ、親切に世話をしてくれたので、最初は優しい人なんだと思っていた。ある朝、布団をもってうろうろする予科練生がいた。兵長に見つかり、こぶしであごを殴られ、ひっくり返った。見ていた全員に一気に緊張が走り、「軍隊とはどういうところか、初めて分かった」瞬間だったと振り返る。

予科練生の1日は、朝5時45分にマイクで「総員起こし15分前」放送が流れ、6時に起床ラッパが鳴る。整列して皇居がある東に向かってお辞儀をし、天皇が詠んだ和歌、御製(ぎょせい)を歌って、海軍体操をする。続いて「甲板掃除」と「駆け足」の2グループに分かれ、甲板掃除班は兵舎の掃除をし、駆け足班は隊列を組んで街中を駆け足で行進してから朝食をとる。

課業(授業)は午前9時から午後4時までほぼ1時間刻みで行われた。無線の授業が特に重視された。操縦する戦闘機の位置を母艦に知らせるために重要だからだ。精神講話もあり、日本は神の国であり天皇陛下のために命を捧げることはいいことだと教えられた。成績が悪い者にはあごをこぶしで殴る「あご」、太い棒で尻を叩く「バッター」などの制裁があり、風呂に入ると皆の尻にバッターの跡があるのが分かった。

年が変わって間もなく、班の教員が代わり、ミッドウェー海戦の生き残りだという一等機関兵曹が着任した。富田といい、体重が80キロほどもあった。

富田教員がやってきて間もなく、相原さんの班の通信の成績が最下位になった。富田教員は烈火のごとく怒り、班の14~15人を廊下に整列させ、拳であごを殴り、全員がその場でひっくり返った。

相原さんが殴られる番が来た。足を踏ん張り、口を閉じた。殴られ、目の前に火の玉が浮かんだような気がしてよろけたが、倒れなかった。

数日後、富田教員から教員室に呼ばれ「甲板練習生をやれ」と命じられた。甲板練習生とは、分隊の軍紀や風紀を取り締まる係で、同期生であっても制裁を加える権限があった。特別扱いされ、一目置かれる存在だ。殴られてもただ1人倒れなかった相原さんを富田教員が気に入り推薦した。

「それからは楽だった」と相原さん。訓練の際も号令を掛ける立場になったため、教員から制裁を受けることもなくなった。「軍隊は悪いことばかりではなかったということ」、一方で「ただ1人、ひっくり返らなかったというだけで、そういうことが通用するのが軍隊だった」。

1945年5月初め、阿見町の土浦海軍航空隊に異動命令が出て、奈良分遣隊の甲14期生全員が特別列車で移動した。

寝具はハンモックだった。ハンモックをたたんだり、下ろしたりする訓練は大変だったが、甲板練習生になった相原さんは号令をかける立場だった。

しばらくして第14期生全員が練兵場に招集され、特攻隊の指名が行われた。名前を呼ばれた者は特攻隊員として魚雷艇に搭乗する。魚雷艇はモーターボートの船首部分に爆弾を詰めて、隊員が操縦して敵艦に体当たりする特攻兵器だ。戦闘機による特攻よりも死ぬ確率が高いことを誰もが分かっていた。

その日、相原さんの名前は呼ばれなかったが、夜になると、あちこちですすり泣く声が聞こえた。後で分かったことだが、名前を呼ばれたのは次男、三男、四男ばかり。相原さんは長男だった。

6月10日、土浦海軍航空隊と周辺地域が米軍のB29に爆撃される阿見大空襲があった。この日は日曜日で、土浦に来て初めて外出できる日だった。面会に来た家族もあり、民間人も含めて教員、予科練生ら374人が犠牲になった。甲板練習生だった相原さんは兵舎を駆け足で点呼し、兵舎を守るためその場に残った。

翌日は特攻基地建設のため千葉県に連れて行かれ、土木工事に従事した。7月下旬にも岩間(現在は笠間市)に行き、特攻基地建設に当たった。

8月15日は上官の分隊士から「本日、昼休み時間に重要な放送がある」という話があった。当時宿泊していた農家の庭に集まってラジオで玉音放送を聞いたが聞き取りにくく、分隊士から「日本は無条件降伏した」と聞かされた。皆、次第に興奮し「筑波山に立てこもって最後まで戦おう」と話し合った。

しかし翌日、帰隊命令が出され、分隊士の説得もあって、皆で隊に戻った。復員が決まり、コメや缶詰などの食料と、服や靴、毛布などの身の回り品を、自分で背負える分だけ持ち帰ってよいことになった。背負える分だけでなく持てるだけ持ち帰ろうと、それぞれ4~5人のグループで農家から牛車を借りて土浦駅まで運んだ。隊を出ようとしたところ、門のところで「退職金が出るので持ち帰ってください」と衛兵に呼び止められ、1000円を超える退職金をもらった。当時、二等兵の月給は45円。2年分の給料に相当する額だった。

左の七つボタンの写真は、入隊したての二等飛行兵だった相原さん、右は上等飛行兵になった相原さんの写真

東京は空襲で焼け野原になっていたが、自宅がある一角は焼けずに残っていた。コメを3斗(45キロ)持ち帰り、家族に大変喜ばれた。戦後は、通産省工業技術院(現在は産業技術総合研究所)地質調査所に勤務し、全国各地を歩いて石炭や鉄などの地下資源の調査をした。

「戦争とは何かなど、当時は考える暇もなかったし、考えもしなかった。とにかく敵をやっつけるために特攻があって、それに乗せられた。我々自身が考えるということは一切なく、上から命令され、その通りに実行するのが役目だった。今は何でも言えるけれど、当時は一切言えず、上から言われる通りにやらないといけなかった」と話す。(鈴木宏子)

続く

弘前ねぷたまつりを楽しむ 《邑から日本を見る》141

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弘前のねぷたまつり

【コラム・先﨑千尋】街に笛の音が流れ、太鼓がとどろく。夏の夜に次々とあふれ出てくるねぷたの群れ。ひと夏を謳歌(おうか)する津軽衆が街を練り歩く。私は今月4、5日の夜、繁華街の弘前市土手町とJR弘前駅前に立ち、7年ぶりに弘前のねぷたを堪能してきた。

弘前ねぷたまつりは、三国志や水滸伝などを題材にした、勇壮で色鮮やかな武者絵が描かれた扇型の扇ねぷた、人形の形をした組ねぷた、子ども用ねぷたが、日中の暑さが残る中、「ヤーヤドー」の掛け声とともに市内を練り歩く祭りだ。

今年は、愛好会や子供会、幼稚園、医師会などから、大小合わせて63台が参加。コロナ禍のために4年ぶりの運行となった。まつり本部の発表だと、5日は30万人の人出。観客は早くから場所取りに忙しく、駅前には有料席も設けられていた。各団体のスタートは午後7時。交差点などで、ねぷたを勢いよく回転させると、力強い武者絵と哀愁を帯びた見送り絵が交互に現れ、観衆から拍手が沸き上がっていた。

ねぷたの起源にはいろいろ説があるようだが、暑さの厳しい、農作業の忙しい時期に襲ってくる睡魔を追い払うため、村中一団となって、さまざまな災いや邪悪を水に流して村の外に送り出す、農民行事から生まれた「眠り流し」がねぷた流しに転化した、と言われている。起源は古く、300年以上も前から行われてきた。

大人から子供まで世代交流の場

青森市では同じ行事を「ねぶた」と呼び、いずれも1980年に国の重要無形文化財に指定されている。青森県内では他にも、五所川原市の立佞武多(たちねぷた、高さ23メートル、重さ19トン)や、むつ市の大湊ねぶたなどが、ほぼ同じ時期に運行されている。

弘前ねぷたは、直径3.3メートルの大太鼓を先頭に小型のねぷたから順に運行され、後半には最大9メートルを超える大型のねぷたが登場する。それぞれのねぷたの後には笛や太鼓の囃子(はやし)方の一団が続き、勇壮な囃子の音色を観衆の耳奥に残しつつ、9時過ぎまで中心市街地を練り歩く。

青森市のねぶたは大企業による大型のものが多いようだが、弘前市のねぷたは「下新町ねぷた愛好会」など、町会単位がほとんど。主役は子どもだと言われている。小学校低学年の子どもがねぷたの綱の引き手を務める。高学年になると、角提灯(ちょうちん)や小型の金魚ねぷたを持ち、行列を先導する。中学生になると、太鼓や笛、かねの囃子方に移っていき、年代ごとに役割が与えられている。

ねぷたを通じて子どもたちは地域の大人と関わり、幅広い世代と交流しながら、心身ともに成長していく。子どもを背中におぶった母親が笛を吹いている姿も見かけた。

ねぷたの制作期間中に学校から戻った子どもがランドセルを玄関先に放り投げ、ねぷた小屋に駆けていき、制作を手伝ったり、囃子の練習をしたりするのも、弘前ならではの光景。ねぷたが地域コミュニティの中心になっている。ねぷたの絵を描く絵師は弘前市では40人以上もおり、それぞれが自慢の腕をふるい、違いを見分けるのも楽しみの一つだ。(元瓜連町長)

焼夷弾落とされ言問橋が真っ赤に【語り継ぐ 戦後78年】2

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高橋遵子さん

つくば市 高橋遵子さん

1944年11月から45年8月まで東京の市街地を60回以上無差別爆撃し、民間人約10万5400人の命を奪った東京大空襲ー。最も被害が大きかったのが45年3月10日の下町大空襲だ。下町のほとんどが焼き尽くされ、約27万戸が罹災、約100万人が被害を受け、約9万5000人が死亡したとされる。

つくば市の高橋遵子さん(85)は当時5歳。母親と二つ上の兄と3人で下町の東京都墨田区向島に暮らしていた。

両親は料理屋を営んでいたが、終戦の1年ほど前に赤紙(召集令状)が来て、父親は店をたたみ、伊豆大島に出征した。きょうだいは姉3人と兄と遵子さんの5人。姉3人のうち小学6年の長女と小学4年の次女は学徒勤労動員で千葉県内の工場に行き、たまに帰ってきては「白いご飯が食べたい」と泣いていた。しかし当時、白いご飯は無かった。

小学3年の3番目の姉は千葉県のお寺に疎開した。7歳の兄は埼玉の親戚の家に一旦疎開したがなじめず、ある日埼玉から歩いて戻ってきた。兄が帰ってきたとき、母親は「二度とそんな思いをさせない」と言って兄を抱きしめたのを覚えている。

1945年3月10日、遵子さんが住む向島の上空に米軍のB29が次々に飛来し焼夷弾を投下した。「逃げろ」という声が聞こえ、母親と兄とで近くの小梅小学校に逃げた。B29は低空を飛行しパイロットの顔が遵子さんにも分かるほどで、逃げ惑う民間人を狙って爆弾を落としているように見えた。

自宅近くの隅田川に架かる言問橋(ことといばし)は、浅草方面から対岸の向島に逃げてくる人と、向島方面から対岸の浅草に逃げようとする人であふれていた。荷物をいっぱいに積んだ荷車を引いて逃げる人もたくさんいた。そこにB29から焼夷弾が落とされた。

近くの小梅小学校に避難していた遵子さんのところにも「言問橋が燃えている」という話が伝わってきた。「石と鉄で出来ている橋が燃えるわけはない」「じゃあ見てみろ」と騒ぎになり、遵子さんも母親らと言問橋を見に行った。

行くと橋は真っ赤に燃えていた。人々の叫び声、荷車が燃える音、強風の音が聞こえ、橋の欄干から冷たい川に飛び込む人影も多数あった。

翌日昼頃、自宅に帰ろうと母親におんぶされて小学校を出ると、途中、街角にあった防火用水の桶(おけ)に、赤ん坊をおぶったまま水に浸かっている母親がいた。「何してるの」と母親に尋ねたところ、母親は「死んじゃってる」と答えた。昨晩、空襲から逃れようと防火用水の桶に入り、2人共、熱風で息を引き取ったと見られた。

遵子さんの自宅は、夜中に風向きが変わったため焼けずに残った。しかし周囲は焼け野原になっていた。近くの公園の広場には墨田川に飛び込んだ人の遺体が山のように重ねてあり、言問橋ではブルドーザーにような大きな車が黒く焼けた遺体を片付け、自宅裏の常泉寺に運んでいた。

遺体は当時、公園や寺の境内に穴を掘って仮埋葬された。夜になると人魂が燃えているように思えて、とても怖かった。遺体が掘り返されて火葬されたのは戦後になってから。名前が分かり、引き取られた遺骨は約8000体で、8万体以上の遺骨が現在も墨田区の東京都慰霊堂に安置されている。

言問橋の欄干の端に立つ石製の親柱には黒い焼け跡が付き、戦後も黒い跡が取れずに残った。戦後、遵子さんは言問橋を渡って高校に通ったが、親柱の黒い焼け跡を見るたび3月10日の恐怖を思い出した。

終戦になっても父親はすぐに帰ってこなかった。その間、母親は1人で5人の子どもを養った。戦後間もなく、母親といなかに行って着物などと交換しコメを手に入いれた時、自宅近くの業平橋駅(現在はとうきょうスカイツリー駅)で闇米の一斉取り締まりがあった。闇米を持っていることが分かると警察に連れていかれる。母親はとっさに、高台にあった業平橋駅のホームから、コメを道路わきに落として駅を出た。すぐに落とした場所に拾いに行ったが、すでに誰かに盗まれた後だった。帰り道、母親は遵子さんの手を引いて一言もしゃべらず家路を急いた。母親がかわいそうで、悲しくて涙があふれた。

終戦から1年ほど経って父親は大島から帰ってきたが、歯が折れてほとんど無くなっていた。大島の海で隊員らの弁当箱を洗っていた時、1つが海に流された。その日、父親は上官から「弁当箱一つでも天皇陛下から預かっている」んだと叱責され、ひどぐ殴られて歯が折れたのだと知った。

遵子さんは「戦争ほど残酷で、惨めなものはない。弱い立場の人ほど苦しむ。二度と戦争をやってはいけない。生き残った者として、伝えていきたい」と語る。(鈴木宏子)

続く