金曜日, 9月 30, 2022
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奥井登美子

ウクライナのニュース 《くずかごの唄》111

【コラム・奥井登美子】 「毎日、ウクライナのニュースを見ていると、僕はどういうわけか、丸木さんがあのニュースを見て何を言われるか、知りたいと痛切に思うようになってしまった」 「ご夫婦で原発の絵を担いで、世界中を行脚して回っていらしたわね。ウクライナはいらしたのかしら?」 「さあわからない…。2人とも、人類の悲劇を実際に見て、絵にしたんだもの、すごい人だよ。昔、位里さんと俊さんが、2人でうちへ来てくれた日のことも、つい、昨日のように思い出してしまう」 土浦市の奥井薬局の2階で、「丸木位里(いり)・俊(とし)展」をやったことがあった。250人もの人が駆けつけてくれて、盛況だった。お2人は我が家に泊まって、おしゃべりして、家のふすまが白いのを見て、刷毛(はけ)と墨汁(ぼくじゅう)を使って、大きな絵を描いてくださった。 生前葬やったの、覚えている?

人生 最後まで自分らしく 《くずかごの唄》110

【コラム・奥井登美子】『死を迎える心構え』 加藤尚武(京都大学名誉教授・哲学)著。弟のタケちゃんの書いた本なので、亭主と2人でなめるようにして何回も読んだ。 『死を迎える心構え』PHP研究所 第11章「人生の終わりの日々」の一節。「…未来がなくても未来があるふりをする。ほんとうはたったひとりでこの道を歩いていくのだ。自分で自分に語りかける毎日。思い出という襤褸(ぼろ)をつないで物語をつくって、その物語の世界に垣根を作って、思い出の中を一人で歩いている時が楽しい…」 生まれる時は自分で選べないが、70年、80年、歴史の中を歩いてきて、死ぬ時くらいは最後まで自分らしく死にたいと思う。 昔は、老衰で、すべての内臓の能力に限界がくると、その人の個性を残しながら、その人らしい最後を迎えられたものなのに、今の医療制度は、なぜかそれを許してくれない。

老人食のむずかしさ 《くずかごの唄》109

【コラム・奥井登美子】「今日のぬかみそはナスにしてくれ」。ナスのぬかみそ漬けくらい難しい漬物はない。色がすぐに変わってしまう。それなのにうちの亭主は、食べたくなって叫んだら、2~3分のうちに色のよいナスを出さないと怒る。 亭主が製薬会社の研究所に勤務していたころ、日仏薬学会の事務長をやっていた。フランスのシラク大統領が来日した時も握手してもらったらしい。 当時の日仏薬学会の会長は東京理科大・薬学教授の辰野高司先生。辰野先生は、おじい様が東京駅を設計した辰野金吾氏。父上は東大のフランス文学者・辰野隆先生で、フランスに対する思いがハンパな人ではなかった。 亭主は高司先生に、フランス人との付き合い方を手に取って教えていただいたおかげで、ワインの選び方、フランス料理に使うチーズの種類などにも詳しくて、私も彼に教わって、家でフランス料理風のニセ料理をせっせと作ったものだった。 仏壇はしょうゆつぎの隠し場所 そのフランス通が85歳を過ぎてから、自分が幼いころ食べていたものだけが食べ物だと思い込むようになってしまった(幼いころの食べ物だけが食べ物と思い込む老人は多いらしい)。味付けはしょうゆとみそ。昔の人がよく食べた、ぬかみそ漬けが大好きで、白いご飯に漬物、半熟の卵があればいいと言う。

死に方が選べない時代 《くずかごの唄》108

【コラム・奥井登美子】死に方を自分で選ぶのが難しい時代になってしまった。コロナの流行がそれを加速してしまっている。人生で最後のしめくくり、「ご臨終」が不可能になってしまったのだ。 Tさんはがんの末期で入院したご主人に会いに行ったけれど、コロナの感染を恐れて会わせてもらえなかった。そのままご主人は亡くなって、遺体をさわることすらコロナの危険でできなかったという。愛する夫の臨終に立ち会えなかったTさんはノイローゼみたいになってしまった。 奥井恒夫さんはご近所に住む親戚で、薬剤師。家族の次に大事な人である。認知症予防に碁と散歩。毎日散歩をして、脳と身体、両方を鍛えていた。彼は自宅で倒れ、救急車で入院。コロナで会わせてもらえないまま、亡くなってしまった。亭主にとって、会えないままになくなった恒夫さんの死はショックだった。 在宅死について書かれた本 「このごろ、息を吐くときが苦しい。おやじも最後のころ、そう言っていた。ぴんぴんころりバタンキュー。人間らしさの残っている間に家で死にたいよ。図書館に行って、在宅死の書いてある本借りてきてくれよ」 亭主に頼まれて、私は図書館に行って本を探してみた。

マスクで「こえわずらい」《くずかごの唄》107

【コラム・奥井登美子】「声がうまく出ないんです。どうしたらいいでしょうか? 医院に行くのもいやなので、薬屋さんに聞きにきました」 「すごく厚くて、いいマスクしていらっしゃいますね」 「そうなの、特別厚い、いいマスクですって、友達からもらったのよ」 「厚いマスクに合わせて、最近、大きな声を出していらっしゃいませんか?」 「うちのおじちゃんもおばあちゃんも耳が遠いから、マスクして聞こえるようにしゃべるのが大変なんです」 「ご両親と同居していらっしゃるのね、家ではマスク外していてかまわないと思うんですけれど」

気温差による「やまい」 《くずかごの唄》106

【コラム・奥井登美子】13日は25℃の異常な暑さだったのに、翌14日は12℃。雨が降って薄ら寒い。1日に気温の差が13℃以上あると、その温度差に、肉体的、体力的についていけない人たちがたくさん出てくる。 気象病、気温差病という病名はまだ一般的でないので、「花粉症」「花粉症の一種」「アレルギー」などと呼んでいる人もいるが、花粉症とは根本的に違うような気がする。 「もしもし、急に寒くなって、血圧が上がったり下がったり、めちゃめちゃなんです。血圧の薬、お宅の薬局からいただいて飲んでいますけれど、こういう時はどうすればいいでしょうか」 「血圧の薬は単に血圧を下げるだけでなく、血管を保護したり、心臓の機能を守る作用もありますので、そのまま、今まで通り飲み続けていた方がいいと思いますが…」 「えっ?」 「ちなみに血圧は何時間おきに測りましたか?」

悲しくて見られない上野の桜 《くずかごの唄》105

【コラム・奥井登美子】敗戦から6年後、私は上野桜木町にあった東京薬科大学女子部に通学していた。上野駅の公園口で降りて、東京芸大の前の道を通り抜けると、桜木町郵便局(私の実家・加藤家の親戚が局長)。その近くの谷中側の道路沿いに学校があった。 学校の敷地の一部に、彫刻家の朝倉文夫氏の家があったらしく、校舎の隅に彫刻の残骸がたくさん落ちていた。 薬科大が専門学校から新制大学になって2年目。学校側も、新制への切り替えで、どうしていいかわからなかったのだろう。今思い出すと、奇妙な、個性的な先生ばかりだった。 法学を教えてくれた正木昊先生は、「松川事件」「三鷹事件」や、自分が関係した「水戸の首なし事件」について、口角泡を飛ばしてしゃべりまくる。黒板いっぱいにチョークで漫画の絵を描く。実に面白い絵だが、終わると、すぐ消してしまう。 「そもそも官僚というのは、自分の立身出世のためならば、何ものも犠牲にする。独善、無責任、非能率、形式主義…」。今でも私は、テレビ画面に広がった漫画が出てくると、正木先生を想い出してしまう。 数学の三東哲夫先生は、寺田寅彦の文章を毎週1回、大きな紙に書いて、読んで解説してくださった。寅彦の文章は、科学と文学の接点を私たちに教えてくれた。

小学6年生の東京大空襲 《くずかごの唄》104

【コラム・奥井登美子】半藤一利氏の著書に「15歳の東京大空襲」というすさまじい内容の体験本がある。私たちは、小学6年生の夏休み、空襲に備えて東京に子供がいてはいけないと、3~6年生が強制疎開させられた。 学校ぐるみで学童疎開した6年生は、疎開中は寮母さんが足りないので、下級生の面倒をみたり、お医者さんに薬を取りに行ったりと、班長さんと言われながら雑用をこなした。 1945(昭和20)年3月。中学の受験日に備えて、何日か前に一斉に帰京しなければならない。まさか3月10日に東京大空襲があるとは知らず、2~3日前に帰京した人が多い。東京大空襲では、墨田区、台東区、江東区などに、334機の爆撃機が爆弾を落として8万5000人が焼死している。 敗戦から3年経って、小松川高校に転校した私は、友達が空襲体験を語りたがらないのに驚いた。あまりに過酷な体験なので思い出したくないのだ。 やけど跡を懸命に隠す少女 家族が全員壕(ごう)の中で亡くなったのに、自分は生き残ったという人も何人かいた。防空壕という名の、手堀り壕の中は狭い。10人ぐらいでいっぱいになり、中から蓋を閉められてしまう。疎開していて防空壕の仕組みの分かっていない6年生は、火の迫ってくる中、どうしてよいかわからずに立っているうち、蓋が閉まって、中に入れなくなってしまった。家族は壕の中で蒸し焼きになったが、1人生き残ることができたという。

ウクライナ子供のつぶやき 《くずかごの唄》103

【コラム・奥井登美子】「空が光って、変な大きな音がして、怖かった」。テレビニュースで、ロシア軍に攻撃され、地下壕に逃げたウクライナの子供のつぶやきを聞き、涙が出そうになってしまった。77年前の日本でも、同じようなことが起こった。今はみんな忘れて、まるで違う世界の出来事みたいに思っている。 私が小学校6年生のときだった。夏休みの間に、東京の小学3~6年生はどこかに疎開しなければいけないという命令が下りた。親戚の家に疎開するのが縁故疎開。学校ぐるみ疎開するのが学童疎開。クラスはバラバラになってしまう。 私が通っていた小学校は成績順にクラス分けされ、1番組の男子は都立3中(今の両国高校)、同女子は都立7女(今の小松川高校)を目指して勉強していた。「クラスはバラバラになるけれど、来年3月の受験日には帰ってくるから、そのよき皆で会おう」。誰かが言い出して、再会を約束して別れた。 東京大空襲に遭った学友たち 私は学童疎開で湯の浜温泉(山形県)に疎開したが、食べる物がなくてお腹が空いて、お手玉の中のアズキを食べていた。父に「縁故疎開に切り替えてほしい。迎えに来て」と手紙を書いたが、先生の検閲に引っかかり、取り上げられてしまった。 友だちが熱を出したが、医者に薬を取りに行く人がいない。先生に頼まれて、薬を取りに行くとき、父への手紙をポストに投函した。昭和19年の秋、私は父の友だちのご縁で、長野県の下伊那に疎開できた。

入浴中の事故防止 《くずかごの唄》102

【コラム・奥井登美子】夫がお風呂へ入ると、浴槽に漬かって、ウットリしてなかなか出てこない。コロナの騒ぎで、どこにも行けなくなった老人の唯一「ウットリの楽しみ」だと割り切って、私は大目に見てきた。 いつもは20分。今日はもう30分だ。さすがに心配になって、のぞいて見る。 「ずいぶん長く入っているの、ね…」 「うーん」 返事はするけれど、立ち上がる気配はない。 近づいてみて、びっくりした。腰が抜けて、立ち上がれないのだ。立つ力が、完全に抜け落ちてしまっている。

真壁のイシ会と日仏の医師会 《くずかごの唄》101

【コラム・奥井登美子】床屋さんの看板で青と赤がぐるぐる回っている。フランスのアンブロワーズ・パレは、床屋から医者になり、4代の王様の主治医になった歴史的人物。私も薬史学会の見学会に参加し、パレがいたオテルデュ病院(パリ)に行ったことがある。赤は動脈、青は静脈の象徴である。 日仏薬学会は、日仏医学会とも昵懇(じっこん)の間柄であった。1990年、仏医学会の希望があり、日仏医学会で「アンブロワーズ・パレ生誕400年祭」を記念して、日本外科学会から日本の古代型石灯篭を送ることになったらしい。 日本の王様、天皇陛下に歴史上初めて手術をなさった手術医は森岡恭彦先生。その先生がある日、奥井薬局に飛び込んで来られた。 「石灯籠の製作は真壁町だそうです。行ってみたいのでよろしくお願いします」 パレに捧げる記念品を、日本の王様の主治医が真剣に探している。五所駒瀧神社(ごしょこまがたきじんじゃ、桜川市真壁町)の櫻井崇さんが石工の加藤征一さんを紹介してくださった。 「そちらが医師会ならこちらもイシ(石)会です。同じイシ会としてぜひ協力させてください」

年賀状にもコロナが跳梁 《くずかごの唄》100

【コラム・奥井登美子】我が家の茶の間の隅に「年賀状の展示コーナー」がある。頂いた年賀状の中で、いつまでも見ていたい、すてきな作品を展示しておくコーナーだ。毎年、干支(えと)の動物を使った面白いデザインが多い。一昨年はネズミ、昨年は牛の絵。個性的なものが多く、茶の間の話題を提供してくれた。 頂いた年賀状の中から、面白いデザインや愉快な言葉を探し出すのが、私の次の楽しい作業なのだ。関寛之先生の手づくり木版画は、毎年、我が家の展示品中の名品だ。80歳過ぎの人の格調高い手書き賀状にはすばらしいものがある。 しかし、今年の年賀状のエトの虎はなぜか元気がない。コロナ禍で家にいて時間を持て余している人が多いから、手の込んだ虎デザインの作品が集まるのではないかと期待していたが、少しあてが外れてしまった。 自由にのびのび『トラ』イする1年に なぜだろう? 年賀状には「コロナが早く収まりますように」という、祈りに近いような言葉で願いを書いたものが多かった。年賀状に込める楽しい夢、格調の高い希望を実現できるかどうか―コロナちゃんの跳梁(ちょうりょう)で自信がなくなってしまったに違いない。 世界中の情報がその日のうちに伝わるすごい世の中。しかし、情報の伝わり方の速さが、人間の頭脳のテンポと合っていないのではないかと思う。人間が人間らしさを楽しむ速度はご飯を食べる速度と同じで、その人によって違う独特のテンポが存在する。ただ早ければいいというものではない。

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日本写真家協会新人賞受賞、田川基成さん つくばで「海の記憶」展

今年、日本写真家協会新人賞を受賞した田川基成さん(37)による写真展「海の記憶」が、10月7日からつくば市天久保のギャラリーYで始まる。田川さんは長崎県出身。受賞作品である故郷、長崎の島々の暮らしを4年にわたり記録した作品群「見果てぬ海」から、同名の写真集収録作品を含む18点が展示される。 同新人賞は将来を期待される有能な新人写真家に贈られる。受賞理由として「『見果てぬ海』は、大航海時代にポルトガル人やスペイン人がキリスト教を伝えた記録から、隠れキリシタンの歴史を掘り起こし、長崎の風景、豊かな海、人々など様々な視点で捉えており、単なる一地方の記録に収まらない。スケールの大きな作品」などと評された。 田川さんは、同テーマの展示を全国5都道府県で開催してきた。県内では初めての開催となる。「海の記憶」に込めた思いについて「長崎自体が持つ歴史、行為、物語、それらを包み込んでいるのが海」「写真は見る人の記憶を呼び起こすメディア。見る人、土地によって感じ方は変わる。会場で、何かを感じてもらえたら」と話す。 初めて訪ねた五島列島から故郷の島を眺める(同) 魔法がかかる

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