月曜日, 4月 12, 2021
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《映画探偵団》37 中心市街地活性化 変わる議論の方向

【コラム・冠木新市】『つくつくつくばの七不思議』と題して、2014年、筑波学院大学コミュニティ講座で話をした。テーマは「伝説と文化を活用したまちづくり」である。「中心市街地つくばセンタービル吾妻篇」では、イタリア人映画監督フェデリコ・フェリーニの『甘い生活』(1960)を例に取り上げた。 『甘い生活』の「ヴェネト通り」 この作品は、作家志望のジャーナリスト・マルチェロ(マルチェロ・マストロヤンニ)が、取材対象を追ってローマをさ迷う話で、街が主役ともいえる3時間の大作だ。深夜、トレビの泉にマルチェロがグラマー・スター(アニタ・エクバーグ)と一緒に入るシーンは、流れ落ちる水の音と相まって神秘的なまでに美しい。 また、ローマの高級レストランやホテルが並ぶヴェネト通りが魅惑的に描かれる。道路には車が駐車、カフェには美女や文化人がたむろし、深夜までにぎやかな場面が映る。誰でも一度は行ってみたいと思わせるような場所に見えてくるのだ。 事実、映画が公開されると、フェリーニに何人もの外国人から電話がかかり、ヴェネト通りに連れていってほしいと懇願されたという。だがフェリーニ自身もめったに行かない場所だった。実は、ヴェネト通りは一部分を除き映画のセットとして建てられたもので、現実とはまるで異なる通りだった。架空の場所に近いといってもよい。 ところが、「映画の『甘い生活』に応じて本物のヴェネト通りが一変してしまい、私が映画のなかで与えたヴェネト通りに迫ろうと猛烈な努力をしたのである」(フェリーニ著『私は映画だ』)。つまり映画のイメージが現実のヴェネト通りに影響を与え、映画のような光景になってしまったわけだ。

《映画探偵団》36 センタービル改造資金13億円の使いみち

【コラム・冠木新市】つくば市議会の9月定例会で、1人の市議が「つくばセンタービル改造計画」に疑問を投げかけた。議会が終了して数日後、「いがらし立青活動報告第8号」(9月19日付)がポストに入っていた。表紙には「ソトカフェ始まりました!」、裏には「中心市街地に関する取り組み/センタービル・センター広場のリニューアル」との記事が出た。 次は、「広報つくば10月号」(10月1日付)に、初めて内容を発表するかなと想像した。しかし「ソトカフェ」と「中央公園の噴水」のことしか出ていなかった。 議会で質問した市議のチラシ(10月2日付)が投げ込まれた。「今年度中につくば市は市税6000万円投入」「アイアイモールの場所と地下市営駐車場(資産価値14億~16億円)を現物出資してまちづくり会社を設立し、貸しオフィスを運営させる予定です。まちづくり会社の経営収支も工事内容も明らかになっていません。市民の意見を取り入れ再考を!」とあった。 10月2日(金)と3日(土)の夕方5時から8時過ぎまで、ソトカフェに行き友人とビールを飲んだ。人はまばらだった。三密を避けるのだからそれはよい。しかし、あまりにも暗い空間だ。せめて照明を用意するとか、広場を囲むようにイスとテーブルを配置するとか、もうひと工夫あってもよいのではないかと思った。ビールの店も早々と店じまいしてしまった。そんな暗い空間である映画を思い出した。 マーロン・ブランドの『ゴッドファーザー』 美人の娘をレイプされた父親が、犯人のチンピラを殺して欲しいとマフィアのボス、ビト・コルレオーネ(俳優はマーロン・ブランド)の暗い書斎で懇願する。外では、陽光の下コルレオーネの娘の結婚式が盛大に開かれている。庭と家の中の明暗の対比が絶妙な効果をあげていた。これはマフィアの権力闘争と家族史を描いた有名な『ゴッドファーザー』(1972)の導入部である。

《映画探偵団》35 つくばにはモンローがよく似合う?

【コラム・冠木新市】20年前、女子短期大学で講師をしていたとき、『モンローとヘップバーン』をテーマに取り上げた。マリリン・モンローは1926年、オードリー・ヘップバーンは1929年の生まれ。2人は同時代に活躍し共通の映画人たちと仕事をしている。初めのうち、学生の好みはヘップバーンが多かったが、講義終了時になるとモンローファンが急激に増えていった。モンロー作品の変遷を追い、演技に対する真摯(しんし)な姿勢を知ると、馬鹿な娘役は高度な演技であることが見えてくるからだ。 つくば市のイメージキャラクターに、2人のどちらかを選ぶとしたらどうだろうか。『ローマの休日』(1953)で王女に扮(ふん)したヘップバーンを大多数の人が選ぶことだろう。だが、市の中心市街地に建つセンタービルには、さりげなくモンローのイメージが組み込まれているのだ。 モンローカーブと呼ばれる外壁の曲線はいくつもある。ホテル棟のドアの取っ手のくねっとした形は、モンローを模している。また、ロビーに無造作に置かれた黒い椅子は背もたれが波うち、モンローチェアと呼ばれている。そのほか、滝の流れ落ちるステージにもモンローカーブがある。きっと、建物内部にも思わぬ所にあると思う。 ビル設計者の磯崎新は、なぜこんなにもモンローにこだわったのか。映画探偵としてこの疑問を考えてみた。モンローの代表作を俯瞰(ふかん)すると、《水》と関連している作品が多くあることに気付く。 《水》:《滝》《海》《河》 『ナイアガラ』(1953)は、腰を振って歩くモンローウォークが有名だが、物語の背景は雄大な《滝》である。『紳士は金髪がお好き』(1953)は豪華客船が舞台で、《海》の旅が描かれる。『帰らざる河』(1954)は、西部劇で不実な恋人を追い、《河》をさかのぼる話だ。『七年目の浮気』(1954)は、名無しのCMガールと中年男が主人公で、モンスター映画『大アマゾンの半魚人』(1954)の、川のイメージを活用して語られている。

《映画探偵団》34 仮面ライダーの聖地を守れ!

【コラム・冠木新市】1971年に始まったTV映画『仮面ライダー』シリーズは、来年で50周年目を迎える。この間、何度か映画化もされ、世界中に多くのファンを獲得してきている。仮面ライダーとは、世界征服をたくらむ秘密組織ショッカーが、本郷猛という青年を科学技術で改造しようとした怪人である。しかし、完全に改造される前に脱出、逆にショッカーと戦う正義のヒーローとなった。 仮面ライダーを作画した漫画家・石森章太郎は、バッタの目玉と髑髏(どくろ)を混ぜ合わせた顔をもつ不気味なキャラクターに仕立てた。放映当初の人気は今一つだったが、本郷猛が腕を高く上げ、「変身トゥーッ!」の気合いで仮面ライダーとなり、サイクロン号のバイクに乗り、自分と同類の奇っ怪な敵をライダーキックで倒すうちに、子どもたちに爆発的な人気が出た。 その後、仮面ライダー2号、V3と続々仲間が誕生し、現在に至っている。これらの仮面ライダーと怪人たちが戦いを繰り広げるロケは、30年ほど前から幾度となく、つくばセンタービルで行われきた。原始的でもあり近未来的でもあるセンタービルは、善と悪が陣地取りするのには絶好の背景なのだ。 私も『仮面ライダー』の撮影現場を度々目撃している。いや撮影だけではない。仮面ライダーは「まつりつくば」などのショーにも出演し、センタービルと一体感のあるお馴染みのキャラクターとなっている。また仮面ライダーのゲームにも、リアルに描かれたセンター広場やノバホールが出てくる。つくばで暮らす私には、現実と虚構が溶け合った奇妙な空間となっている。 特撮ファンは、茨城県魅力度最下位の報道に接したとき、おかしいと感じたはずである。センタービルは仮面ライダーの聖地として全国で認知されていたからである。 センタービル秘密改造計画が進行中?

《映画探偵団》33 つくばセンタービル 磯崎新の設計思想

【コラム・冠木新市】東京ディズニーランドのシンボル、シンデレラ城が新型コロナウイルスで休園中に改修された。シンデレラ城は、ドイツのバイエルン国王ルードウィッヒⅡ世によって創られたノイシュバンシュタイン城をモデルにしたものである。東京ディズニーランドと同じく1983年に完成した「つくばセンタービル」も、実はノイシュバンシュタイン城の影響を受けて創られている。 「狂王ルードウィッヒが純粋に快楽のために建設したこの折衷主義のあだ花、キッチュの権化ともいうべきノイシュバンシュタインは、いまでは確実にポピュリズムの核心にある。《つくばセンタービル》の複合体が独自の象徴作用をなすためには、私はキッチュ的な要素の使用も辞すまい、と考えたことも事実である」「私はノイシュバンシュタイン的なものへ接近する道を歩んでいたのかもしれない」(磯崎新編著『建築のパフオーマンス』PARCO出版局) 「こんな面白いところが、入場料もとらずに開放されているなんて、信じられない」と言った人がいた。私も30年ほど前から、毎日のようにセンタービルを眺めてきたが、見飽きないし、少しも古びないのは驚きである。晴れた日には、3棟のビルの表面がきらきら輝き、美しいかぎりだ。さらに、1000人以上入るホールがあるのに、巨大さを感じさせないのはなぜだろうか。 なかでも中央の楕円形の広場、いや、庭は実に刺激的だ。何もない空間だからである。だが、東洋的なこの庭は、西洋的な3棟の建物を際立たせている。しかし、権力、財力、名誉を求める人にとっては、廃墟をイメージするような空間は腹立たしさを覚えるのに違いない。力を暗示するシンボルが存在しないからである。 霞ケ浦を模した階段から流れる水は、つくば市の位置に相応する中央へと流れ落ちる。センタービルの空っぽの庭は、創造性を触発する器であり、水が主役なのである。私などは、崩れかけたような岩山に大魔神が埋め込まれているのではないかと、つい想像してしまう。 大映の『大魔神』ドーム屋根案を踏み壊す?

《映画探偵団》32 野口雨情作詞『爆弾三勇士』

【コラム・冠木新市】雨情茨城民謡の謎を解くため、1930年代に作られた映画や1930年代を舞台にした映画を探して見ている。ある日、昭和初期を時代背景に作られた東映の任侠映画があったことに気が付いた。雨情と任侠映画はミスマッチであり盲点だった。 東映の任侠映画は『人生劇場 新飛車角』(1963)から始まる。TVの普及で斜陽となった日本映画界で観客を集め、『日本侠客伝』『昭和残侠伝』『緋牡丹博徒』などのシリーズ物を生みブームは約10年間続いた。だが当時の映画評論家や文化人からは毛嫌いされ、批判の的だった。 鶴田浩二主演『博奕打ち 総長賭博』 ところが、作家の三島由紀夫がある任侠映画を絶賛したところから潮目が変わる。お墨付きを得たからだ。「何という絶対的肯定の中にギリギリに仕組まれた悲劇であろう。しかも、その悲劇は何とすみずみまで、あたかも古典劇のように、人間的真実に叶っていることだろう」 三島が評価した作品とは、ギリシャ悲劇を参考にした笠原和夫脚本、様式美で描いた山下耕作監督の『博奕打ち 総長賭博』(1968)である。

《映画探偵団》31 雨情とチャップリンのちょび髭

【コラム・冠木新市】茨城県出身の民謡詩人野口雨情と世界的な喜劇俳優チャーリー・チャップリンは、外見が小柄でどことなく雰囲気が似ているように思える。2人は1930年代の世界大恐慌に生きた同時代人だが、私が似ていると感じたのは、ちょび髭(ひげ)のせいかもしれない。しかし雨情のちょび髭は本物だが、チャップリンのそれは映画の中だけでしか付けない放浪紳士用としての偽物の髭である。 2人が生きた時代のニュース映像などを見ると、ちょび髭の人たちが結構映っていて流行だったのが分かる。チャップリンと同じ1889年生まれのドイツの独裁者アドルフ・ヒトラーもちょび髭だった。成功者の証しなのか、自己アピールのファッションなのかは分からないが、今は女性受けしないようで、ちょび髭の男性はほとんど見かけない。 昭和7年(1932)5月13日、桜川流域の土浦にあった高級料理屋・山水閣に海軍青年将校らが集まり、犬養毅首相たちの最終暗殺計画が練られた。将校らは犬養毅とチャップリンが会見する情報を知り、一緒に暗殺しアメリカに恐怖心を与えようと考えたという。5月14日、チャップリンが来日。東京駅には8万人のファンが歓迎する熱狂ぶりだった。そして5月15日を迎える。急きょチャップリンは予定を変更し犬養の長男と相撲見物に出かけ、暗殺から逃れることができた。 中学生のころ、5・15事件とチャップリン暗殺計画の事実を映画の本で知ったときには、歴史的事件と喜劇映画とがなかなか結びつかなかった。青年将校らは民衆に人気があったチャップリンの命をなぜ狙ったのだろうか。もし成功していたら、猛批判にさらされたのに違いないからだ。また将校らはチャップリンの映画を本当に見ていたのだろうかと気になった。 『チャップリンの黄金狂時代』 『チャップリンの黄金狂時代』(1925)は、金鉱を探す一攫(いっかく)千金を狙う放浪紳士の話である。凍てつく雪山で腹をすかし、飢餓におちいる場面が出てくる。空腹に耐えかねた放浪紳士は、片方の革靴をお湯でぐずぐず煮て料理をつくる。皿にのせた靴のヒモをフォークでスパゲッティのように巻いて美味しそうに食べる。次に靴底に打たれた釘を取り除くと肉の付いた小骨のようにしゃぶる。少年のころから何度も見ているシーンだが、靴底が本物のステーキのように見えてきて、こちらまでお腹がふくれる気がする。

《映画探偵団》30 野口雨情の「茨城県行進曲」

【コラム・冠木新市】この十数年、AI時代だというのに、なぜか昭和初期がずっと気になっていた。多分、茨城県出身の詩人野口雨情の民謡との出合いがそうさせたのだろう。 2013年9月、「雨情からのメッセージ/幻の茨城民謡復活コンサート」を筑波学院大学の大教室で開催した。雨情が作詞した地元民謡11曲を掘り起こし、オペラ、ジャズ、ポップスの歌手に披露してもらった。 雨情の地元民謡は、昭和元年(1926)から昭和17年(1942)の間に作られ、昭和大恐慌と大東亜戦争の時期にあたっている。最初に作られたのは、「茨城県行進曲」(作曲堀内敬三)だ。茨城新聞社が企画制作し、大正末か昭和初期に作られた。茨城県各地の四季の光景を明るく表現している。 霞ケ浦の 水に浮く 山は筑波の 優(やさ)すがた海の公園 茨城は 春の魁(さきがけ) 春が来る春だ 春だ 春だ 2012年、雨情生誕130周年記念番組を茨城放送で企画中に、この音源が入ったCDをプロデユーサーから手渡された。東日本大震災の時、茨城新聞社の資料棚が倒れ、出てきたレコードから起こしたものだという。私は野口雨情との縁を感じた。 結局、スポンサーの都合で企画は流れてしまったが、その後のコンサートに結びついた。しかし、当時は音源や楽譜集めに夢中で思いつかなかったのだが、「茨城県行進曲」とドイツ映画「メトロポリス」(1927)は同じ時期に作られていたことに、最近になって気が付いた。

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なでしこ2部での初戦飾れず つくばFCレディース

プレナスなでしこリーグ2部、つくばFCレディース対バニーズ群馬FCホワイトスターの試合が11日、ひたちなか市新光町の市総合運動公園陸上競技場で開催された。つくばは0-2で敗れ、2部昇格の初陣を飾ることはできなかった。 プレナスなでしこリーグ2部、第1節つくばFCレディース 0-2 バニーズ群馬FCホワイトスター 今季、初のプロリーグ「WEリーグ」が創設されるなどドラスティックな動きを見せている女子サッカー。昨季なでしこチャレンジリーグに属していたつくばFCは、今季から、なでしこ2部に戦いの舞台を移した。 前半9分、左サイドからクロスを上げる高田莉緒(撮影/高橋浩一) 初戦の相手はバニーズ群馬FCホワイトスター。昨季なでしこ2部で活動していたバニーズ京都と、関東女子1部で活動していた群馬FCホワイトスターが一つになって再始動したチームだ。

桜の開花と宇宙天気キャスタ 《食う寝る宇宙》83

【コラム・玉置晋】今年はコロナ禍だったこともあり、お花見は犬の「べんぞうさん」とのお散歩で終わってしまいました。茨城県では3月下旬に満開となり、4月上旬には葉桜になっております。最近の桜の開花は随分早くないですか? 僕が小学校に入学した時(1985年4月)の思い出は、入学式では桜はつぼみ、数日後に教室から見た校庭の満開の桜があまりにきれいで、よく覚えています。 気象庁のデータベースから茨城県水戸市の桜開花日グラフを作成しました。 僕が小学校に入学した1985年、水戸市の桜の開花日は4月7日でした。水戸市の小学校の入学式は4月6~8日となりますので、入学式の桜はつぼみだったという僕の記憶は確からしいことがわかりました。 また、年により開花日にはバラつきがあって、僕の一つ上の学年(1984年入学)は4月20日が開花日で、一つ下の学年(1986年入学)は4月10日が開花日でした。もしかしたら、入学年によって入学式の思い出の風景が異なるのかもしれませんね。

全国初 摂食嚥下障害の「特定認定」看護師を養成 県立医療大

茨城県立医療大学(阿見町阿見)は、これまで開講してきた摂食嚥下(えんげ)障害看護分野の認定看護師教育課程を4月から、厚労省認定による「特定行為を組み込んだ新たな認定看護師教育課程」(通称・B課程)に移行させた。 高度かつ専門的な知識、技能が必要とされる行為(特定行為)について、医師の補助を行ことができる「摂食嚥下障害看護分野における特定認定看護師」の育成に乗り出した。 食べ物などが食道でなく、気管に入ってしまうことを誤嚥という。これらの摂食嚥下障害は、脳卒中や神経難病だけでなく、咽頭部のがんをはじめとする疾患、術後などさまざまな病態でみられ、特に高齢者ではこの障害による誤嚥性肺炎が問題になっている。 猛スピードで到来する超高齢社会を想定するとき、この領域の認定看護師に対する期待は、病院だけではなく、在宅療養、在宅看護を行う家族をはじめ、地域社会で水準の高い看護(実践)が求められるようになる。 同大学の資料によると、今年度の受講生は11人。摂食嚥下障害看護分野におけるB課程開講(特定行為を組み込んだ新たな認定看護師教育課程)は全国初。 摂食嚥下障害看護認定看護師には、摂食・嚥下機能の改善のほか、嚥下性肺炎予防、化学療法、放射線治療中の口腔トラブル予防、改善などの役割が期待されている。(山崎実)

学童疎開の思い出 《くずかごの唄》83

【コラム・奥井登美子】私は土浦市立真鍋小学校の学校薬剤師を何年か勤めた。この学校には、校庭のまん真ん中に、昔寺子屋だったときの名残の桜の古木がある。入学式の日は、6年生が新入1年生をおんぶして満開の桜を一周する。 初めてこの光景をみたとき、私はどういうわけか、涙があふれて、あふれて、止まらなくなってしまった。私にとって小学6年生は生涯で一番忘れられない年なのである。 昭和19年の夏休み、私たち小学生は空襲時に備えて、3年生から6年生まで東京から強制疎開しなければならないことになった。縁故のある人は縁故疎開。ない人は学校ごとの学童集団疎開。成績順にクラス分けしていたので、1番組の男の子は3中(今の両国高校)、女の子は7女(今の小松川高校)を目指していた。 仲良しだったクラスメートとバラバラに別れてしまう。そのとき、皆で「3月12日の都立の受験日には帰ってくる」堅い約束をしてしまった。 父も母も京橋生まれで、田舎に親戚のない私と3年生の妹は、集団疎開を選ぶしかなかった。上野駅に送りに来た父は「困ったことがあったら、すぐ連絡してください。迎えに行くから」と言ってくれた。 山形から長野へ再疎開