【コラム・斉藤裕之】違和感を覚える言葉。例えば「思い出づくり」という言葉。思い出をつくるという、おこがましいというか大きなお世話といいますか。「いい思い出をつくりましようね!」って言われて「はい!」って答えるのもおかしな話。そもそも、狙って思い出をつくろうとする魂胆がいやらしい。おまけに、実際に残っている思い出は苦いものも多い。「思い出づくり」。誰かの意思を感じる気味の悪い言葉。

さて、これに似た最近教育現場でにわかに耳にするのは「ポートフォリオ」という言葉。ポートフォリオとは資料が入っている入れ物や資料のことかと思いきや、教育に導入されようとしているポートフォリオは平たく言えば「学習や活動の記録・データ」。要するに、勉強や部活、ボランティアなどの郊外活動なんかをデータとして残して、大学入試などの自己アピールポイントとして活用しようというものらしいです。

なるほど、積極的な子供、自己主張のできる子どもが育ちそうです。ですが、私には「思い出づくり」と同様の怪しさを感じます。つまり、ポートフォリオのための学習や活動になりかねない。本末転倒、点取り虫やおべんちゃらの上手な子供になりはしないかと危惧します。「巧言令色(こうげんれいしょく)すくなし仁」という言葉がぴったりの大人は近くにいませんか? ポートフォリオね、どうなんでしょうね。

思い出は転がるもの

しかしながら、そういう意味でいうと世の中には果たして純粋な表現なんてあるのでしょうか。今回で8回目となる「平熱日記」展の準備をしながらあれこれと考えます。この1年間に描き散らした絵を額に入れながら、代わり映えのしない日常に感謝したり、マンネリに陥りがちな絵を嘆いたり。そろそろモチーフ探し、思い出づくりに出かけた方がいいのかな。

独りよがりになってしまうと、表現とは言えなくなるのもまた事実ですが、評価を前提にした、予定調和的な表現にはだまされてはいけません。そうそう、カラオケで万点取るみたいな。やはり、直観の果てに良くも悪くも思い出は転がるもの。

ちなみに、今回のDM(ダイレクトメール)の作品は壁際に寝そべる犬のフーちゃんです。以前にも書きましたが、私は決して愛犬家ではありません。ただクソ暑かった今年の夏。夏の一場面を描いただけです。(画家)