【コラム・栗原亮】天狗党が元治元年(1865)3月に筑波山に挙兵したが、幕府はこの動きを「反幕」とみなして、諸藩に追討を命じた。同年5月には、天狗党を打ち殺してもいいという触書を村々に出している。天狗党は、水戸城を奪還できなかったので、水戸藩の交易場所であった那珂湊を占拠する。那珂湊は東北諸藩の商船が出入りし、繁栄し、その資金は天狗党にとって大きな意味を持っていた。

3カ月近く天狗党は那珂湊に立てこもり、ゲリラ的行動に訴え、戦局を挽回しようとしたが、幕府の大軍を前にして政局を挽回することはできなかった。一時は田中愿蔵が日立の助川城を奪回することもあったが、大きくは戦局を変えることはできなかった。兵糧攻めに遭い、天狗党が全面降伏に追い込まれる危険性を持っていた。天狗党は降伏か、那珂湊脱出か、選択を迫られた。

那珂湊を脱出した天狗党は大子に集結し、武田耕雲斎を総大将とした。800余名がいくつかの部隊に編成し直し、戦線を立て直した。京都にいる禁裏守衛総督一橋慶喜に天狗党の衷情を訴え、一路京都を目指すことになった。中山道を通り、京都を目指す途中、高崎藩などの諸藩兵と戦った。戦闘に巧みな天狗党はその戦いに勝利した。

彦根藩・大垣藩などの大藩が、幕府から追討を命じられた。それを聞いた天狗党は、戦闘を回避し、北陸路を目指すことになった。険阻な道と大雪で天狗党の行く先は困難を極めた。大野藩によって村が焼かれたりして、食料もなく、疲労困憊(こんぱい)を極めた。

水戸藩内死者2000

越前国(福井県)新保(しんぼ)まで来て力尽き、天狗党は加賀藩の軍門に下った。加賀藩は、天狗党を手厚く待遇した。一橋慶喜は幕閣との融和を考え、天狗党800余名を幕府の田沼意尊(おきたか)に引き渡した。天狗党は敦賀の真っ暗な鰊(にしん)小屋に入れられ、約350名が斬首された。

斬首されなかった約400名は明治維新まで諸藩に預けられた。水戸城下にいた尊攘派は諸生派によって死刑になるとか牢獄に入れられ、徹底した弾圧を受けた。預けられた天狗党の中には、明治維新を迎えることなく、死ぬ者もいた。

維新後に京都の本圀寺に幽閉されていた武田耕雲斎の孫金次郎らが維新政府に許され、水戸に戻ると、諸生派の家を襲い家族を虐殺するなどの復讐の惨劇がおきた。天狗党の乱、維新後の惨劇を含め、水戸藩内では2000人以上の人命が失われている。とうてい他の藩では考えられないことである。(郷土史家)