【コラム・栗原亮】前回、慶応3年(1876)の王政復古大号令がクーデタであると指摘したが、今回はこの政変に至る経緯について述べたい。

米国公使ハリスは、幕府に修好通商条約調印を迫り、アロー号事件(中国の第2次アヘン戦争)が終結すると、欧州列強が武力で条約締結を迫るだろうと脅した。幕府は米の圧力に屈し、安政5年(1858)、対米通商条約を結ぶに至る。

この動きを警戒していた德川斉昭(前水戸藩主)らは、締結に際しては朝廷の勅許を得るよう幕府に求めたが、井伊直弼(大老)は勅許なしで条約を結ぶ。このため、斉昭、徳川慶篤(水戸藩主)、德川慶勝(慶恕、尾張藩主)が不時登城(登城日でない日に登城)、直弼を糾弾した。

また、13代将軍徳川家定に継嗣がなかったため、だれを将軍にするか問題になっていた。島津斉彬(薩摩藩主)を中心とする派は、英明との評価が高い一橋慶喜(御三卿一橋德川家第9代当主)を後継にと考えたが、血筋を重んじる直弼らは徳川慶福(よしとみ、紀伊藩主)を擁立、斉彬派vs直弼派の政争に発展。

結局、直弼は慶福を将軍後継者とし、斉昭を謹慎、慶篤と松平慶永(福井藩主)を隠居・謹慎させ、慶喜を登城停止に処す。

一方、水戸藩や薩摩藩は、許可なしの条約締結は問題だと、幕府の違勅と一橋派処罰を責める勅諚(ちょくじょう)を発布するよう朝廷に働きかける。これを受け孝明天皇は水戸藩に密勅を下す。この動きに直弼は、密勅に関係した水戸藩士や幕府に批判的な藩士や浪士を逮捕処罰。橋本左内(福井藩)、吉田松陰(長州藩)らが処刑される。

幕府は、水戸藩から諸藩に密勅が伝達されることを恐れ、水戸藩に密勅の返納を迫る。水戸藩では返納をめぐり、返納反対派と返納を認める保守派が対立。直弼の独断を怒る過激派の水戸脱藩浪士は安政7年(1860)、桜田門外で直弼を暗殺。

このテロのあと、安藤信正(平藩主)が老中になるが、幕府の権威は衰退。これを挽回するため、幕府は朝廷との融和を図り、14代将軍家茂に孝明天皇の妹和宮を降嫁させる。ところが信正は、反幕府派に好機を与えたと坂下門外で襲撃される。

文久2年(1862)、長州藩では藩論が開国から攘夷に転換。保守派が凋落、攘夷派が権力を握る。同藩は朝廷に、同3年(1863)5月10日をもって攘夷を決行するという詔勅を出させ、下関海峡で米国などの艦船を砲撃、攘夷を実行するが、完敗する。(郷土史家)