【コラム・及川ひろみ】1947年の航空写真を見ると、宍塚の谷津は田や畑が広がっています。しかし、平場の田んぼとは違い、林に遮られて日照時間が短く、水は冷たい清水頼みの稲作。しかも、居住地まで山坂を上り下りし、収穫した稲を運び出すのも苦労の連続であったことが、聞き書きで明らかになりました。

一方、土浦市は商業都市として栄え、歩いても行ける近さ。早々と谷津田での耕作を止め、街に働きに出た方も多く、70年の生産調整開始前から、大池の西・南の谷津田では耕作放棄地が広がっていきました。

しかし、北側の谷津は、宍塚大池の水が灌漑用として利用できることもあり、私たちの会が発足した1989年ごろまで、かなり広く耕作が続けられていました。それも、次第に耕作放棄が広がり、里山内における農業、特に水田の減少が目立ちました。水田の存続は里山にとっての生命線であり、生物の多様性を維持する上で、水田耕作は欠かせない大切なことでした。

そこで、会は94年から、狭いながらも堤防下の谷津田の一部を使い、地元農家の協力を得て、古代米づくりを始めました。99年に「田んぼ塾」が発足し、約2反の田んぼで米作りを始めました。稲穂が赤、紅色、紫、黒などに実るものや、香りのある米香り米、ミルキープリンセス、マンゲツモチといった多品種のコメを作りました。

当時、休耕田では米を作ることはできませんでしたが、海外への援助米にすることで耕作可能な方法があることを知り、2年間、収穫した米と同量のコメを地元から買い取り、援助米を扱う団体に送りました。会の人たちが苦労して収穫した無農薬の米を、援助米にはしたくありませんでしたから。

田んぼアート。今でこそ方々で行われていますが、会では99年から8年間、カラフルに実る古代米を生かし、稲文字や稲によるお絵かきを楽しみました。

2011年からは、不耕起・無農薬・無肥料による米づくりに切り替え、14年には名称を「自然農田んぼ塾」にしました。自然と敵対せず、自然との調和を目指し、草や虫、微生物を敵とするのではなく、これらの生きものの力を活かした農法です。

合言葉は「生き物いっぱい、お米ザクザク、おいしい米づくり」です。様々な工夫、研究を重ね続けていますが、ある方法では反当たり、7俵から8俵のコメが収穫できるまでになりました。自然農田んぼ塾のコメ作りについては、次回報告することにします。(宍塚の自然と歴史の会代表)