【コラム・栗原亮】今年は明治維新から150年。政府はこれを祝福し、記念行事を予定しているようだが、果たして明治維新は喜ばしいことなのであろうか。薩長連合により徳川幕府を倒して近代化を成し遂げ、植民地にならなかったのは維新政府の功績―と称賛するが、実態はどうだったのだろうか。

長州藩尊攘派は文久2-3年(1862-63)、京都の朝廷を牛耳り、公家・天皇を動かし、幕府に攘夷実行を迫った。尊皇というのは名目であり、朝廷に取り入り、力で自分たちの意志を押しつけ、詔勅(しょうちょく)を出させたのである。

それだけでなく、京都市中では大老井伊直弼の関係者を「天誅」と称して暗殺。長州藩尊攘派につながる浪人たちのテロ行為で、京の治安は乱れた。京都守護職を命じられた会津藩、新撰組は、尊攘派や浪人の取り締まりを強化、治安を保った。

これが、会津藩が長州藩から恨まれる原因となった。横暴な尊攘派に対する取り締まりは当然の行為であり、何ら非難されるべきことではない。

大日本帝国憲法を創った長州藩の伊藤博文は同藩の山尾庸三と、国学者・塙保己一の四男の国学者・塙次郎(忠宝:ただとみ)を暗殺している。塙が廃帝の調査をしているとの噂があったため、2人は先ず、国学入門と称して麹町三番町の塙宅を訪ね、その面体を確かめる。そして、文久2年12月21日夜、塙の帰宅を待ち受け、「国賊」と呼びかけ斬殺した。

若気の至りとはいえ、思慮の足りない行為である。長州藩テロリストと言われる所以である。同年12月12日には、長州藩の高杉晋作、久坂玄瑞らが品川御殿山に建設中の英国公使館を焼打ちしている。攘夷だとする、児戯に等しい行為である。

幕府が諸外国と通商条約を結んだのは開国の流れであり、これを討幕のために覆そうとするのは筋違いである。当時の幕府の外交官は、必死で国益を考え交渉に当っている。尊攘派が言うように、国益に反することはやっていない。彼らが日本の植民地化を防いだのである。

元治元年(1864)、長州藩尊攘派は禁門の変で敗北、続く長州戦争により一時は衰退するが、その後盛り返し薩摩藩と同盟を結ぶ。そして、彼ら討幕派が慶応3年(1867)12月9日、将軍徳川慶喜のいないところで徳川家処分を決定、大政復古の大号令が出される。こういった動きは明らかにクーデターである。

徳川家の政治が悪かったわけではない。260年間続いた徳川の政治は、民政に留意した政治だから長く続いたのである。薩長の行動は政権奪取のクーデターであり、そこに何らかの正当性があるわけではない。(郷土史家)