《好人余聞》7 「珈琲が飲めなかったんです」バリスタ 山口ひろみさん

山口ひろみさん

【コラム・オダギ秀】人生という旅の途中で出会った人たち、みんな素敵な人たちでした。その方々に伺った話を、覚え書きのようにつづりたいと思っています。

一杯の珈琲が人生を変えることがある、というテレビドラマのような話を眼の当たりにした。初夏とは言っても、ちょっと風は冷たいかなという日、つくばの住宅街の珈琲店で、その人に会った。街路樹は新芽を吹いていて、そこここに、色鮮やかな花が咲いていた。

山口ひろみさん、珈琲専門店のハートフルなバリスタだ。バリスタと言うのは、たんに珈琲を淹れるスキルが優れているだけではなく、珈琲に関する豊かな専門知識を持っている、珈琲のプロだ。

「でも私、もとは珈琲が嫌いだったんです。飲めなかった。苦いような、煮詰まったような、酸味があるような、そんな珈琲しか知らなかったんですね。どこがいいんだろうと思っていた」

だから、たまたま珈琲専門店のこの店に来た時、頼んだのはソフトクリームだった。「珈琲専門店に来て、ソフトクリームはないだろう。この珈琲飲んでみて」と珈琲を淹れたのだと、傍らでオーナーが笑った。

その一杯の珈琲を口にして、山口さんは衝撃を受けた。「まろやかで、風味がよくて、香りが素敵で。鳥肌が立つようでした」。

それまで、書き切れないと言うほど多くの職業を経験していた山口さんだった。その頃は、保険会社の営業で、頂点を目指していた。だが常に、何かを求めていたのかも知れない。多くの仕事をしていても、満たされていなかった、いつも物足りなさがあったと、しみじみ言う。

「その席で飲んだんですよ」。山口さんは、店内の小さな椅子を指差して笑う。その席で彼女は一杯の珈琲を飲み、そして、それまでの仕事も地位も捨て、転職した。こんな珈琲を淹れて、人に美味しいと喜んでもらえる仕事がしたい、と思ったのだそうだ。

「それまで珈琲を知らなかったから、辛かった。珈琲豆のカタカナ名前を苦労して覚え、味を知り、淹れ方の難しさを、お客さまとの会話の仕方を、必死で学びました。マスターはストイックで厳しいんです。夜中までダメ出しされ、付いて行くのが大変だった」

その後山口さんは、バリスタやコーヒーマイスターの公式資格も取る。「淹れ方は、ボクより上手いんじゃないかな」とマスターも認めるほどになった。

「お客さまが美味しいと思ってくださったかどうかは、一口飲んだ時のお顔でわかります。その表情がうれしいんです。大勢のお客さまでなくていい、私が淹れた珈琲でなければダメ、というお客さまに来て欲しいですね」

山口さんの人生を変えた珈琲は、ストロベリーモカと言う。マスター荒野さんの命名だが、詳しく言うと、イルガチェフェ・ナチュラルという豆。珈琲が好きでないという人にもダントツ人気の、エチオピアの豆だ。

彼女が珈琲を淹れてくれた。小さなカップの中を見つめると、彼女の人生を淹れたような珈琲が、力強い深い色を沈ませて落ち着いていた。店の外で、子どもたちがはしゃぐ声がする。つくばの夏は、そこまで来ていた。

▼あらの珈琲 つくば市並木4-4-2 並木ショッピングセンター内 営業時間は10:00〜19:00 水曜日定休