【コラム・高橋恵一】石庭で有名な京都の龍安寺に「知足の蹲踞(ちそくのつくばい)」と呼ばれる手水鉢(ちょうずばち)がある。石臼のような外見で、デザインは銅銭・寛永通宝の模様になっている。寛永通宝と言えば、銭形平次の必殺技の投げ銭。時代劇の美男役者・大川橋蔵が逃げる犯人にシュッと投げて仕留める、あれである。

寛永通宝は、真ん中に四角の穴が空いており、その四角を「寛、永、通、寶」の4文字が時計回りに配されているが、龍安寺の蹲踞(つくばい)には、「五、隹、疋、矢」の4文字が配されて、中央の「口」とあわせて、「吾(われ)唯(ただ)足(たる)を知(しる)」と読む。禅の教えで、限りない「欲」や「傲慢(ごうまん)」を戒める言葉だそうで、この蹲踞の寄進者が水戸黄門・徳川光圀なのだ。

光圀は、庶民や弱い者の味方で、母親のご機嫌取りに「生類憐みの令」を出して庶民が困るのが判らない「犬将軍・徳川綱吉」をいさめ、将軍の威光を笠に着て権力を振るう栁沢吉保を批判的に扱った、みんなの黄門様である。

実際、光圀は副将軍でありながら奢(おご)ることもなく、大日本史を編纂するなど、学問・知性を大切にした名君と言われている。幕政においても、取りつぶされた大名家を再興して浪人の増加を防いだり、自らの子供を後回しにして、後継藩主に兄の子を擁立するなど、筋を通した政治家であった。

最近の世情のキーワードに、ご機嫌取り=忖度(そんたく)、犬(ポチ)、威光を笠に着る=暴言、強弁、強行採決、改竄(かいざん)、隠蔽(いんぺい)、非知性などなど。「吾唯足知」と対極の現世だとの思いを強くし、情けなくなる。セクハラに超鈍感で、「女性活躍社会」を言うのか。格差とパワハラに超鈍感で、「働き方改革」を言えるのか。政治家・権力者は、龍安寺にお参りしてみたらどうか。

マザーコンプレックスの綱吉の姿が、祖父の背後霊につきまとわれ、日本だけで310万人もの死者を出してしまった反省から国民が獲得した「日本国憲法」を、一文字だけでも変えたいと言ってシツコイ権力者に重なって見えて仕方がない。

国民を「下々の皆さん」と表現して違和感を持たないもう一人の権力者は、封建時代の迷君殿様だろう。側用人とか陣笠とか、「そちも悪よのう」の御用商人や小遣い(利権)で権力者にこびる「ならず者」など、時代劇に登場する連中に置き換えることが出来そうな人々が日本を動かしている。

幾分なりとも知性的な判断をする人々や、正論をいう学識者の声は届かない。メディアはどうしたのか。視聴率、売上部数偏重と権力への媚(こび)が見えて仕方がない。メディアは真ん中ではいけない。嘘と事実の中間はない。強者と弱者の中間はない。加害者と被害者の中間もない。やられた方にも何か落ち度があるなんて意見を報道するのは中立とは言わない。

5月3日は憲法記念日である。「国民主権」と「基本的人権」、戦争を否定して恒久平和を希求する国際社会において名誉ある地位を占めたいと謳う「日本国憲法」である。憲法の理念の実現に気を抜いてはいけない。(元オークラフロンティアホテルつくば社長)