《食う寝る宇宙》12 宇宙と介護のせめぎ合い


【コラム・玉置晋】新年度がはじまり、職場や大学でフレッシュな人たちを見掛けます。新しいに環境に大きな希望と多少の不安を抱えていることでしょう。でも、僕は元気を頂いています。僕は今、ここ何年か挑戦している資格試験の願書を作成中。この試験の受験要件は宇宙関連分野の業務経験が7年以上(大学院は2年の業務経験とカウント)です。僕は就職して、十何年か経つので、受験要件はクリアです。提出する業務経歴書を見ていて、僕が就職した頃を思い出します。

僕が就職する数年前、今は亡き父は病気がちで、入退院を繰り返し、そろそろ介護施設の支援が必要かなという時期でしたので、僕は地元の茨城に戻ることにしました。両親には「茨城に戻るが、すまん、大学院に行きたい、もう少し宇宙の勉強をさせてくれ」と頼みました。介護費用等で立て込んでいる中で学費を出してくれた(将来を見据えて学費をプールしていてくれた)両親には感謝しきれませんね。

地元の茨城大学は全国でも有数かつ地方大学では希有(けう)の「宇宙に強い」大学で、そこには宇宙天気の先生がいた。これも幸運です。学生という身分は時間に自由がききます。介護をする上で時間は貴重です。働きながらの介護はよほど職場の理解がない限り(理解があっても)厳しいものがあります。好きな宇宙の勉強をしながら、父の介護をさせてもらうということで一時的に我が家で運用することが可能でした。でも、所詮、一時しのぎです。僕も将来にわたって食わねばなりませんし、どの様に生きていくか悩みました。いや、本当は宇宙に関する仕事がしたいわけですよ。でも、全地球規模で展開する(と勝手に解釈していた)宇宙に関する仕事なんて、実家から通える範囲で、転勤なしで、そんな都合のよいものがあるわけない。しかも、当時、宇宙業界は暗黒時代。ロケットは墜落し、人工衛星は行方不明になり、日本の宇宙開発は停止、新卒の採用が消滅した時期です。このことは、宇宙業界人材の年代構成のバランスを崩し、現在にも禍根を残しています。

そうそう、ロマンチストな僕は、高萩にある当時KDDIのパラボラアンテナ(現茨城大学宇宙科学教育センター)の下に行き、宇宙とお別れの決意をしました。若気の至りですわな、大学院を休学して、公務員試験の勉強を始めたわけです。専門外かつ完全にネガティブ思考での進路選択は大抵うまくいきません。不合格。どうしましょう、という中で2005年2月に「気象衛星ひまわり6号(運輸多目的衛星新1号(MTSAT-1R))」が打ち上がるわけです。止まっていた宇宙開発プロジェクトは一気に動き出し、宇宙業界は空前の人手不足。なんとハローワークに「急募 つくば市 衛星運用者」が出たんですね。当時、宇宙関係の求人がハローワークから出るのは極めて異例でした。この求人に飛びついて、僕の宇宙の仕事は始まりました。仕事をしながらの介護は、多くの試練を伴いましたが、母と妻のがんばりで数年しのぎ、2009年に環境のよい介護施設が水戸市内にできて、父は2013年までそこでお世話になりました。休学していた1回目の大学院も働きながら修了することができました。(宇宙天気防災研究者)