【コラム・奥井登美子】「あなたにどうしても見せたいものがある。私と一緒に銀座に行こう」。敗戦後、半年。12歳の私はまだ疎開先の長野県にいた。急に背が伸びた私は着ていくものがない。父は、友達から預かっていた荷物の中から毛皮のコートを取り出して着せてくれた。空襲の後、連絡のつかない友達のコートを拝借したのである。

京橋に生まれ育った父は銀座の街が大好きで、父の会社は銀座西8丁目にあった。幸い焼失をまぬがれたが、銀座の町全体が無残に焼けただれ、爆風で割れた建物の窓にガラスの代わりに新聞紙が貼り付けてある。有楽町駅の近くから、交詢社(こうじゅんしゃ)ビルだけがひとつポツンと残っていて新橋駅が見えた。

「焼けた銀座、よく見ておきなさい」。有楽町駅。ホームから下に降りると、床がなぜか異様にヌルヌルしていて、何回も滑りそうになってしまった。お借りした毛皮のコートを汚してはならないと、滑らないようにするのが一苦労だった。

「駅に避難して、ぎゅうぎゅう詰めで蒸し焼きになり、亡くなった人の脂がまだ床に残っているのです」。父の説明で、床のヌルヌルが焼死した人の脂だということがわかった。戦災から1年近くたっているのに、人の脂と血液がコンクリートの隙間で異常醗酵したらしい。あたり一面、鼻をつくような何ともいえない臭いがただよっていた。

私は焼けただれた町の惨状と、駅のコンクリート床にしみこんだ人間の臭いの強烈さに圧倒され、言う言葉を失ってしまっていた。

東京で一番おしゃれな小学校の建物といわれていた泰明小学校は、当時銀座に住んでいる人たちの指定避難所になっていたので、何百人もの人が折り重なって蒸し焼きになってしまった。

12歳の少女の時に嗅いだ臭いの強烈さは、その後何年たっても私の中からとれず、東京に帰ってからも、しばらくは有楽町駅近くに行くのが怖かった。泰明小は最近、ブランドものの高価な制服で話題になった学校である。あの時の無残な建物と強烈な臭いを思いだすと、今、おしゃれな制服を着るくらいのぜいたくは許されてもいいのではないかと思う。(随筆家)