【コラム・先﨑千尋】今月9日の『日本農業新聞』で、山形県高畠町の農民詩人・星寛治さんの訃報を見た。享年88歳。星さんの仲間である佐賀県唐津市の山下惣一さんが昨年亡くなり(本コラム126回)、農業の現場から、小説やルポ、詩、講演などで農村の実情を世間に訴え続けてきた南北の巨頭を失った感じだ。

星さんは、1973年に町内の若手の農民たちと「高畠町有機農業研究会」を立ち上げ、耕し、収穫し、おいしいコメやリンゴ、ブドウなどを消費者に直接届け、食べものを分かち合う喜びを、詩に刻んできた。また、わが国の農業と農法をどうするかを農民や消費者、研究者たちと議論し続けてきた。

小説『複合汚染』を書いた有吉佐和子さんも、74年に高畠を訪れ、小説にもそのことを書いている。日本有機農業研究会を立ち上げた一楽照雄さんとも親しかった。

私が星さんと最初に出会ったのは77年夏。石岡市で開かれた「生消提携」の集会を『日本農業新聞』の通信員として取材し、講演後の星さんに高畠のリンゴとブドウを購入したいと申し出たことがきっかけだった。それから、私どものささやかな消費者の会「水戸たべものの会」と交流が始まり、高畠まで車を走らせ、2月の生産者と消費者グループとの「作付け会議」にも参加するようになった。

熊本県水俣市の水俣病患者の生産する甘夏を購入するようになったのも、この頃だった。星さんからは、著書を発行の都度送っていただき、自宅に伺い、リンゴ園も何度か見ている。今年の賀状には「はてしない野道をゆっくり、ゆっくり歩こうよ。足跡など消えてもいいよ」という詩が添えられていた。

実践するだけでなく表現する農民

星さんの師匠は、詩人で同人誌『地下水』を主宰していた真壁仁。佐藤藤三郎さんや齋藤たきちさん、木村廸夫さんらと共に、直系の弟子だった。星さんは真壁から「実践するだけでなく、表現する農民として生きていく」ことを学んだ。

星さんは高校を卒業してすぐに就農した。最初に取り組んだ化学肥料や農薬漬けの農法で身体を壊し、田畑から生き物が消えていくのを見て、「命や健康、環境を守ることが農の本分」と思い定めた。土にはいつくばって虫や草を取り、農薬などを使わない農業を実践。3年目の田んぼに黄金色のコメが実り、トンボやホタルも戻ってきた。

星さんは町の教育委員も長く務めた。在任中は食農や食育教育を重視し、学校給食で地域の食材を使った「地産地消」に取り組んだ。「農業と教育は、育てるという意味で地下茎のようにつながっている」と書いている。星さんにとって有機農業は生き方そのもの。「文化」は英語では「カルチャー」。文化とは耕すことだというのが口癖だった。そして「農民は、日本に暮らす勤労市民の命と健康を支える使命がある」とも。

「農村には千年続く伝統と文化がある。日本の原風景に誇りを持とう。そして田園に暮らす幸せを体感しよう」という星さんの呼びかけに、私も共感する。星さんのあとは山形大学農学部を出た孫の航希さんが継いでいる。星さんの足跡が消えることはない。(元瓜連町長)