【コラム・川端舞】街に出れば、たちまち私は差別される。面白そうなお店の入り口に数段の段差があったとき。私が話しているのに、相手が私の後ろにいる介助者ばかり見るとき。車椅子ユーザーで言語障害のある自分は、社会から存在を想定されていない人間なのだと感じる。

日常の中で、私は差別者になる。言葉での説明抜きに、SNSに写真を載せるとき、視覚障害者も私のSNSを閲覧する可能性を忘れている。肌の色が自分と違うという理由で、初対面の人に「どこの国の出身?」と話しかけるのは、外国に何らかのルーツはあるが、日本人としてずっと生きてきた人の存在をないものにしている。

異性愛前提の恋愛トークをするとき、異性愛以外の恋愛をする人や、恋愛感情を持たない人をいないものにし、初対面の人の性別を外見から勝手に判断するとき、男女という枠に当てはめられることに違和感を持つ人の存在を無視している。

存在を無視される痛みはよく知っているはずなのに、私も誰かを差別する。

怒りは対等な関係へのラブコール

韓国の社会学者キム・ジヘにより書かれた「差別はたいてい悪意のない人がする」(大月書店)は、障害者、性的少数者、非正規労働者などに向けられる、日常に潜むあらゆる差別を挙げながら、私たちは皆、差別する側にもされる側にもなると指摘する。

人は誰だって、「自分は差別などしていない」と思いたい。しかし、1人の人間の思考力には限界がある。いくら気をつけても、何気ない言動が誰かに疎外感を与え、差別に加担してしまう時が出てくる。

気を抜けば、私もすぐに差別者になる。何気ない一言が、誰かに言い知れぬ孤独感を与えてしまうかもしれない。大切なのは、自分の中にある差別性を誰かに指摘されたときに、素直に反省し、言動を改める努力をすることではないか。

その指摘をすることで、その場の空気や人間関係を壊してしまう可能性もある。それでもなお、なぜ相手は、時に怒りに震えながら、私の中の差別性を指摘してくるのか。その怒りは「あなたと対等な関係を築きたい」という妥協なきラブコールかもしれない。私を信頼し、伝えてくれたラブコールを、素直に受け止められる人間に私はなりたい。(障害当事者)