【コラム・斉藤裕之】20年近く前。当時作家として参加をしていた美術展の会場にと訪れたのが最初。通称、女化(おなばけ)分校。木立に囲まれた敷地には平屋のかわいらしい木造校舎。私はその佇まいに一発でやられてしまいました。それから10年ほどこの分校で毎年展示をしました。ですが放っておけば朽ち果てる運命にあるこの校舎。私は作家仲間に声をかけ、この分校をアートを手段にした交流の場とするべく「女化再校」という活動を立ち上げました。

さて手始めに地域住民、市の担当者、作家仲間で再校に向けての話し合いの場を持つことにしたのですがこれが大変。趣旨に賛同する人もいる中、「こんなものはとっとと壊して新しい施設でも作るっぺよ」こんな意見が住民から飛び出すほど。なにしろアートってヤツは怪しい。アーティストなるものはなお怪しい。おまけに我々はよそ者。完全アウェー。

この分校、ちょいと複雑な生い立ちがありまして。そもそもこの辺りは明治の頃、入植、開墾によって開かれた土地。そしてその人々自らの資金と労力でこの校舎は今から80年ほど前に建てられたそうです。今の50歳くらいまでの方はこの校舎に通ったそうですが、その後役目を終え「女化青年研修所」として使われるともなく市の施設として今日に至っていました。つまり市の施設でありながら住民はわしらの分校というダブルバインド。しかしくじけることなく続けた話し合いの結果、再校活動はスタート。その後私は美術展など度ある毎にこの活動を市民や作家に告知し、参加を呼び掛けましたが反応は冷ややか。それでも転機は訪れます。

2008年、茨城で開かれた国民文化祭。我々はこの分校を舞台に、開発等で伐られた樹木を使って巨大な薪(まき)のインスタレーション作品を作ることにしたのです。多くの来場者のために耐震工事やトイレや屋根の補修もされました。出来上がった作品は大変な好評を得てテレビや新聞の取材も受けました。間もなく「女化アートフィールド」として再出発を果たした分校。私はコーディネーターとしてそのかじ取りを任されました。その後取手のアートプロジェクトや守谷のアーカススタジオからもタッグを組みたいとの要請があり、県南アートトライアングル構想も現実のものになりつつあった矢先、突然市は方針を転換。詳細は明らかではありませんが、従来通りの無難な美術講座や季節のイベント会場としてこの分校を使いたいとのことでした。

そんなことが思い出されたのは、先日、目に飛び込んできた新聞の見出し。「牛久、女化分校 国の有形文化財へ!」活動に参加していた仲間はこの知らせを聞いてどう思っているのかな。私的には昔別れたひとが結婚したと風のうわさで聞いた感じ。女が化けて文化財かな。とにかくあの時の直観と活動が今に繋がっていることは確か。とりあえずお幸せに。(画家)