【コラム・小泉裕司】前回の15「花火を観るなら有料観覧席でⅡ」(6月18日掲載)で紹介した「隅田川花火大会」は、日本最古の花火大会とされている。大会公式HPでは、「両国の川開き」という名称で、享保17年(1732)、大飢饉(ききん)と疫病の流行による犠牲者の慰霊と悪疫退散を祈って江戸幕府8代将軍吉宗が催した水神祭に続き、翌年に両国橋周辺の料理屋が許可を得て花火を上げたことが始まりと解説している。

国内の花火企業約300社が加入する公益社団法人日本煙火協会の平成30年度版「花火入門」でも「通説」と前置きしながら、夏の花火大会のルーツとして紹介している。同様の記事は、様々なメディアで散見するので、このように承知されている読者も多いのではないだろうか。

ところが、「花火入門」の令和元年度版からこの記述は消失し、最新の令和5年度版(6ページ)でも、隅田川での花火鑑賞の記録としては、さらに100年以上前の寛永5年(1628)、浅草寺に来た天台宗の僧・天海を花火でもてなしたという記録にさかのぼり、その後の両国橋架橋により花火の名所となったとある。

記述変更の経緯について、テレビの花火解説でおなじみの日本煙火協会河野晴行専務にたずねたところ、墨田区すみだ郷土文化資料館開館20周年を記念して開催された特別展「隅田川花火の390年」の図録(2018年)に掲載されている同館福澤徹三学芸員の「論考-享保18年隅田川川開開始説の形成過程」を根拠にしたとのこと。

この論考では、過去の膨大な記録を読み解く中で、隅田川での花火の記録は寛永5年が初見であり、享保18年開始説の記録は存在しない。同時に、「享保説」は明治24年から昭和9年までの44年間にわたって3段階の付け加えが行われ、日時的にも根拠のない「創作」であると論じている。今後も有力な新資料が発見されない限り、現在流布している「享保説」を採用することはないとしている。

一方で河野氏は、「享保説を声高に否定するようなことはしない」とも言う。「粋」を信条とする花火師の世界。「眉間にしわを寄せて議論するような野暮(やぼ)は言いなさんな」ということなのだろう。

なお、「疫病」をコレラと表記している解説も一部見られるが、コレラが江戸で流行となったのは、「安政コロリ流行記-幕末江戸の感染症と流言」(白澤社、2021年)によれば、安政5年(1858)であり、これはもう「論外」。

花火見物は「特別な時間」

それにしても、4年ぶりの「隅田川花火」を2週間後にして、「何、無粋なこと言ってんだか」とお思いの読者には、「粋」なお話をひとつ。

両国橋周辺が花火の名所となった江戸時代後期の旧暦5月末から8月末まで、毎日20発ほどの花火が上がっていたそうで、遊び好きな江戸っ子にとって花火見物は堂々と夜遊びができる特別な時間。

1発打ち上げるのに30分以上かかっていたようで、次の花火を待つ闇夜に乗じ、素敵な人に声をかけるなんてこともあったとか。当時の浮世絵に見る川端に憩う女性のファッションで、気合いの入り方が読み取ることができるとも。本日は、この辺で「打ち止めー」。「ドン ドーン!」。(花火鑑賞士、元土浦市副市長)