【コラム・山口絹記】前回の記事では、翻訳について考えるために、通訳と翻訳の考え方の違いについて書いた。今回は翻訳(英語から日本語)の難しい部分について、実例を交えながら書いてみようと思う。

さっそくだが、 “prom(プロム)”ということばをご存じだろうか。 これはアメリカのハイスクールの伝統的なダンスパーティーを指す単語なのだが、プロムを経験したことのある日本人は当然ながら少ない。今、私はニュースサイトのコラム記事を書いているわけで、”プロム”という文化について長々と連載記事を書いてもよいわけだが(記事としての価値があるかは別)、小説の翻訳となるとそうはいかないだろう。これは、文化の違いによる翻訳の難しさだ。

また、安易な引用は避けるが、宗教的なイディオム、テキストの引用、習慣や儀式を背景に持つ文脈の翻訳が難しいのは想像できるだろう。キリスト教圏においてどれだけの割合が聖書を読んでいるかはわからないが、日本人のそれよりも多いことは間違いない。これは「宗教の違い」による難しさ、ととらえてもよいのだが、もっとわかりやすく言うと「常識」の違いだ。

「常識」ということばの扱いもまた難しいのだが、例えば一般的に『桃太郎』のおおまかなストーリーを知らない日本人はかなり希少と言っていいだろう。普段から意識することはあまりないだろうが、日本に生まれ育った者であれば、『桃太郎』という単語一つでかなり多くの文脈を共有できる。”どんぶらこ”でも”鬼退治”でも”きびだんご”でもよい。ちょっとした単語から、私たちは多くの共通したイメージを共有できる。これって実はすごいことだとは思わないだろうか?

「英語力」ではない部分が試される

では翻って、このコラムを読んでいる方の中に、『トム・ソーヤーの冒険』を読んだことがある方はどれだけいるだろう? 『ハックルベリー・フィンの冒険』は? その中に登場する文脈、センテンスが引用されたり、少しもじられたりしたら、どれだけの日本人が理解できるだろうか。これが誤解を恐れずに言ってしまえば「常識」の強さであり、その「常識」が共有できなかった場合は、相互理解のうえでおおきな足かせになることは想像に難くない。

実のところ私自身、海外小説を原文で読んでいると、いまいち何のことだかわからないことがままあるのだ。文脈から察するに、こういう場面が描かれているのだろうな、というのはわかるのだが、本当に理解しようとすると、いわゆる「英語力」ではない部分が試される場面が非常に多い。そしてこれは、海外の論文やニュースなどを読んでいる時より、児童文学を読んでいるときの方が多かったりするのだ。

あらゆる文化の違いを乗り越えて文章を理解するための知識と経験と想像力、そして、それを他者に伝えるための文章力が翻訳という行為に必要な最低限の資質だと私は考えている。次回は、ここからさらに一歩進んだ難しさについて書いていこうと思う。(言語研究者)