【コラム・田口哲郎】

前略

先日、ノーベル賞作家の大江健三郎さんの訃報が飛び込んできました。88歳の大往生とはいえ、驚きましたし、悲しいですね。

大江さんがノーベル賞文学賞を受賞されたのは1994年で、当時、私は高校生でした。日本はバブル景気がはじけて、失われた10年に突入し始めたころです。高校生の私は呑気(のんき)で、世情に疎いタイプでしたので、それから世界や日本の社会が劇的に変わってゆくなんて、夢にも思っていませんでした。

先日、大江さんを追悼する番組がNHKで再放送されました。ノーベル賞受賞の記念講演とそのときのスウェーデンへの旅に密着したドキュメンタリーでした。

大江さんは受賞直前に小説の執筆を止めると公言していました。周りは再び書くよう勧めますが、大江さんは小説よりももっと直接的に人びとの魂に救いをもたらすような、小説ではない何かを生み出したいとおっしゃっていました。

多様性、ケアの思想を先取り

スウェーデンには長男の光さんを同伴されていました。光さんは障がいを持ちながら、クラシック音楽の作曲をして、そのCDは20万枚売れたそうです。私もよく聴いていました。

今になると、大江文学の中心的な主題である、障がいを持つ息子との交流は、ケアの思想を先取りしていたのだなと思います。いのちある者はみな互いに尊重し合い、弱きを助ける考え方です。大江文学は弱者により添います。インタビューで大江さんは、「ダイバーシティ」という言葉をつかって、多様な価値観を受け入れ、尊重できる社会をめざすべきだとおっしゃっていました。

現在、さまざまなところでダイバーシティが言われ、多様な社会の実現のための努力がおこなわれています。それを大江さんは30年近く前に先取りしていたのですね。

現実と虚構が一体の世界を創作

さて、ノーベル賞受賞理由は「詩趣に富む表現力を持ち、現実と虚構が一体となった世界を創作して、読者の心に揺さぶりをかけるように現代人の苦境を浮き彫りにしている」です。大江文学は文体のすばらしさ、その文体がつくる世界観の奥深さ、それを写実的ではなく幻想的に描き出したことです。

しかし、大江作品の魅力は、現代人が持つ苦しみにより添う姿勢だと思います。たとえば、社会はダイバーシティを推進するために、積極的に前進することを強調します。大江さんはその活動の根本にある原因、人間の悲しみを癒やすこころを静かに、そして丁寧に書き残したのだと思います。

大江さんという偉大な賢人が残してくれた言葉をじっくり味わいたいですね。ごきげんよう。

草々

(散歩好きの文明批評家)