【コラム・斉藤裕之】冬の初めに1人用の土鍋を買った。その日から今日まで、つまりひと冬の間、鍋を食べ続けた。まず大きな白菜を買って、毎日2枚程度を外側からはがして使う。長ネギ半本、豆腐は3分の1。これを基本として、豚、鶏、魚介などの動物性のたんぱく質と、それに合う、塩、みそ、しょうゆ系の汁のシンプルな鍋だ。

好みで春菊とセリをあしらうことはあっても、キノコや他の野菜は入れない。無駄になるものはほとんどなく、残ったら卵などを落として次の日の朝食とした。

気が付くと、油を使うことも全くなくなり、洗い物も少なく、胃もたれなどもない。しかし、量、質ともに極めて質素な夕食なのだが、なぜか体重が増えた。冬の寒さに体がエネルギーを蓄えようとするのか、あるいは寒いのであまり体を動かさないためか。

多分、現代の食事は何を食べても、基本的に栄養過多になるのだろう。今日はハンバーグだの、明日は中華だのと、おいしいものをこれでもかと食べ過ぎているに違いない。それから、毎日同じような物を食べているわけだが、不思議と飽きることはない。

インドの人が毎日カレーを食べるように、フランス人がパンとチーズを食べるように、私の体は米と汁物でできていることを実感する。

余談だが、フランスのポトフという料理は、金偏(へん)にかまどを表す旁(つくり)でできた鍋という字と一致する。学生のころ、フランスから留学してきたエマニエルが作ってくれたポトフの味は、今でも忘れられない。日本では手に入り難い牛の脊椎を入れたポトフ。その中の髄(ずい)がおいしいと教えられてパンにつけて食べた記憶がある。

みんなで「囲む」「つつく」鍋

こうして今風に言うと、「鍋しか持たん」1人鍋生活は続いているわけだが、本来、鍋はみんなで「囲む」もの、「つつく」ものだ。長い間マスク生活を強いられ、パーティションで仕切られたり、人数制限をされたりしていたので、鍋物はしばらく敬遠されていた。しかし、いよいよというかやっとというか、日本でもマスクから解放される日がやってきた。大手を振って、鍋を囲んでつつくことができる日がきたのだ。

しかるに今日は鶏のブツが手に入ったので、いつものように鍋の用意をする。足元にはパク。もちろん目当ては骨だ。こいつが家に来て、ちょうど2年が経った。

思い立って、先日、かつて過ごした茨城町の古道具屋に連れて行った。仲良しだった犬たちと新たに小さな兄弟の保護犬がいて、最初は警戒していたが、やがて仲良く寝床でくつろいでいた。その中の1匹は3月末にもらわれていくという。

春は別れの季節。そして白菜の旬も終わる。いつまでも鍋というわけにもいかないか。よし、次の白菜の最後の一葉を食べきったら、鍋よ、いざさらば…。そして、春は出会いの季節でもある。とりあえずマスクを外してスーパーに行こう。そして春キャベツを買おう。(画家)