【コラム・田口哲郎】
前略

今さらながら、小津安二郎監督の名作をアマゾンビデオで鑑賞しました。紀子三部作と言われる『晩春』(1949年)、『麦秋』(1951年)、『東京物語』(1953年)と『お茶漬けの味』(1952年)です。

小津映画については蓮實重彦氏の著名な評論があり、さまざまな論者がさまざまな切り口で論じています。ですから小生がなにを言ったところで、誰かがどこかで言っているかもしれないのですが、それにしても、小津映画を見たら余韻にひたるだけではなく、誰かに感想を言いたくなるものだなと思いました。

こんなに語りたくなる映画は、そうはない気がします。小生のような者にも語らせるのですから、小津映画の内容の厚さはそうとうなものでしょうし、だからこそ小津映画の評論は絶えず出つづけているのでしょう。

さて、映画素人の小生が感じたことは、セリフのなかの「あいさつ」の多さです。たとえば、『麦秋』で原節子演じる紀子は丸の内でタイピストをしているわけですが、北鎌倉の自宅から通っています。すると、紀子が帰宅すると「ただいま」となるし、出勤するときは「いってまいります」となる。家族団欒(だんらん)のあと、就寝の時間になると演者たちはめいめい「おやすみ」「おやすみなさい」と言います。

冒頭のシーンは家族の朝ごはんのシーンですから、「おはよう」「いただきます」「ごちそうさま」「いってまいります」です。逆にあいさつがこれだけ出てくるシーンの連続なのに、飽きないのです。

「あいさつ」であふれる生活のありがたさ

小津映画は庶民の生活を描いたと言われますが、われわれの日常生活の会話、そのほとんどは「あいさつ」なのではないかと気づかされました。

『晩春』『麦秋』は紀子の結婚が中心テーマなので、人生の一大事です。一大事を決めるときに、家族は話し合い、たまに深い話をします。けれどもそれは「あいさつ」が交わされる長い日常にはさまれて、ときどき顔を出すのです。平凡な日々はなんとなく何度も、何度も「あいさつ」をすることでつつがなく流れてゆく。そこに駆け引きや企(たくら)みなどはあまりない。気をゆるせる相手がいるから成り立つ生活です。

こういう生活がしあわせなのだろうと画面が教えてくれました。ご近所さんとはお天気の話をしなさいと言われます。差しさわりのないおしゃべりをしていれば間違いがないということです。政治、野球の話をすると口論になりやすいから、やめておけとも言われます。

人が熱くなるということは面白く刺激的な話題です。お天気話は刺激がない分、危険もない。これは消極的なリスク管理なのですが、裏返せばこの程度の気遣いで平和な生活を送れること自体がありがたいことなのだということになります。小津映画にはもしかしたら、あたりまえで平凡だけれども、実は理想的で夢のような世界があるのかもしれません。

小津映画の人々のように生きたいものです。ごきげんよう。

草々
(散歩好きの文明批評家)