【コラム・川端舞】今月初め、生まれ故郷の群馬で、障害者権利条約の勉強会があり、2年ぶりに帰省した。会場で高校の同級生2人と再会し、写真を撮った。

国連が障害者権利条約を解説した「一般的意見」には、「(障害のある子とない子が同じ教室で学ぶ)インクルーシブ教育は、すべての生徒の基本的人権」と書いてある。5年ほど前、初めて読んだとき、その意味を理解するのに苦労した。「インクルーシブ教育は、障害のない生徒のためにもなるのか」と。

その考えが変わり始めたのは、数年前、ふとしたきっかけで、同級生たちと連絡を取るようになってからだ。高校当時、私は自分の障害への劣等感や、大学受験のプレッシャーで、息の詰まる学校生活を送った記憶しかなかった。しかし、友人と話しているうちに、当時の楽しかった記憶も思い出した。

周囲の同級生が障害のある自分をどう見ていたのかも聞くことができ、少し客観的に過去を振り返ることができた。「こんなに悩んでいるのは自分だけだ」と思っていたが、実は障害のない生徒も深い悩みを抱えていることがあり、悩みの原因の多くは、社会や学校が多様性に寛容でないためであると気付くこともできた。

一方、卒業後10年以上たってから、当時の自分の悩みを友人に聞いてもらうこともでき、「高校時代、川端がふさぎ込んでしまったのも無理ないよ」と言われ、気持ちが楽になった。

しんどいのは障害児だけではない

「しんどさを抱えながら、学校に通っているのは障害児だけではない。だから、どんな子でも過ごしやすい普通学校に変える必要があるのだ」。友人と話しながら、こんなことを思った。

勉強や運動が他の子どもと同じようにできなくても、違いを受け入れ、どのように環境を変えれば、障害児でも過ごしやすくなるのかを考えられる学校は、障害のない子どもにとっても過ごしやすい学校になるのかもしれない。それが、「インクルーシブ教育は、すべての生徒の基本的人権」ということなのだろう。

いろんな同級生と一緒に高校時代を過ごした記憶と、大人になってから果たせた同級生との再会が、私に「インクルーシブ教育とは何か」を改めて考え直させてくれるのだ。(障害当事者)