【コラム・山口京子】1月15日の明け方、電話がありました。父の入所している施設の職員さんからです。「お父さんの意識がありません。救急搬送しますか? このままこちらで様子を見ますか?」と聞かれました。「救急搬送は希望しないので、そちらでお願いします」と答えると、「それでは施設の担当医に来てもらいます。また連絡します」。しばらくして再び電話が鳴り、「息を引き取りました」と言われました。

父がいる施設にデイサービスで通っている母からは「父ちゃんは食欲もあって、内臓はどこも悪くないから長生きするよ。この数日少し熱があるけれど、心配するほどではないよ」と聞いていました。亡くなる前日の夕食も普段通りに食べて就寝したそうです。

突然のことでした。私と妹たちは、両親は百歳まで生きるだろうと話していましたし、それをふまえた心積もりをしていました。こんなに突然、あっけなく、亡くなりましたという連絡が来るなんて…。年齢的には十分だと思います。ましてや苦しまずに逝ったのだから、幸せなことだ、と。89歳10カ月でした。

父は「死にたい、死にたい」とよく言っていましたが、自分の死に際して、子どもに伝えておきたいことはなかったのか? エンディングノートも、思いを記したメモもありませんでした。家計のことはすべて母にまかせて、好きにしてきた父らしいのかもしれません。

生きるという意味と価値と秩序

父の死の前に、私はだれの死の姿を見たかと記憶をたどると、母方の祖父と父方の祖父母の死でした。40年以上前のことです。「死ぬこと」が暮らしから見えなくなって久しい時代です。「死ぬこと」がめったにないことだから、かえって怖がったり恐れたりするのでしょうか。

父の遺体と向かい合い、父が自分を見ることはないんだ、自分の死はだれか他者の目によって見つめられるものだ、死は怖いことではなく、だれにでもやってくるものなのだ―と、教えられた気持ちでした。

人間が生きることにはそもそも意味も価値もないのかもしれません。ですが、社会をつくって人間が生きるとは、否応なく意味と価値と秩序がいることです。そう思います。だとしたら、どんな意味と価値と秩序で構成された社会を望むのか。

「どんな文化が、社会を存続可能にするのかに注目する」ことが求められていると指摘する社会学者がいます。私たちの時代は、どんな文化をつくってきてしまったのでしょうか。私たちを取り巻く文化は、果たして社会を存続させられるものでしょうか。(消費生活アドバイザー)