【コラム・田口哲郎】
前略

2022年は鉄道開業150年、日本初の鉄道が新橋―横浜間で営業を開始した記念すべき年でした。鉄道が150周年ということは、日本の近代化も150周年ということになります。もちろん、どのタイミングを近代化のはじまりとするかは、いろいろ意見があると思います。しかし、人びとの生活を実質的に大きく変えたという意味で、鉄道は近代化の象徴と言えるでしょう。

開業以来、鉄道は人びとの生活に影響を与え続けてきました。いや、支配し続けてきました。コロナ禍の前まで、鉄道の特権的地位は揺るぎないものでした。自動車や飛行機があるではないか、と言われるかもしれませんが、車や飛行機の普及は鉄道よりもずっと後です。近代化を先頭切って突き進んだのは鉄道です。

鉄道は人の移動と物流を激増させ、中央集権的な社会をつくりあげました。江戸時代は人びとの社会単位は村でした。今よりずっと小さい村が無数にあり、それを藩がまとめていました。その限られたテリトリーを鉄道はうちこわして、大きな単位でも人びとが生活していける経済圏を成り立たせたのです。

さらに、鉄道は人びとの時間の感覚を近代化しました。むかしは徒歩や馬の速さでまわっていた時が、鉄道の速さで流れます。定時運行とスピードが、人びとの生活を仕切るようになったのです。ようするに、のんびりがセカセカになりました。資本主義経済が人びとの欲望を刺激して、もっと豊かに、よりはやく、より安く、がよしとされる社会の誕生です。

コロナ禍で人間の物理的移動が広い範囲で制限されてはじめて、鉄道の存在意義が問われることになりました。自動車、飛行機だって人や物を乗せて移動するので、電子情報だけをのせる通信網に速さではかないません。

近代化を楽しむ内田百閒

さて、近代化の申し子、鉄道はふつう、目的があって乗ります。目的地に行くため、帰宅するためです。その繰り返しの日常が通勤、通学であり、たまに旅行というわけです。

その場合、鉄道は手段であって目的ではない。鉄道網は日本全国にはりめぐらされて、もはやあたりまえになりました。鉄道が社会にあふれています。そうなると、鉄道を手段ではなくそれ自体を楽しむという人がでてきます。いわゆる鉄オタです。鉄道に乗る、写真に撮る、模型にする、を楽しむのです。

鉄オタの元祖は内田百閒(ひゃっけん)でしょう。『阿房列車』という、目的なく鉄道に乗る体験を書いたエッセイをのこしています。百閒先生は「なんにも用事がないけれど、汽車に乗つて大阪へ行つて来ようと思ふ」と、目的必須の近代化を鼻で笑うような意気込みで乗りテツの楽しさを味わうのです。

時間に追われる社会で苦しみながら鉄道に乗らねばならない庶民のかなしさを、独特の方法で励まそうとしているように思えます。なぜなら先生は貧しかったのに、借金までして乗りテツしてたんですから。ごきげんよう。

草々
(散歩好きの文明批評家)