【コラム・先﨑千尋】今月3日、群馬県館林市の文化会館で「渡良瀬川研究会閉会記念鉱害シンポジウム」が開かれ、50年の活動にピリオドを打った。このシンポには約100人が参加し、50年の活動を振り返り、同研究会顧問の赤上剛さんの「田中正造はどのような人物か。今の時代に何を訴えているのか」と題する基調講演などがあった。

同研究会は、1973年に群馬県教組邑楽支部が主催した渡良瀬川鉱害シンポジウムが起源。渡良瀬川研究会として正造と鉱毒事件を研究し、正造の思想や運動を継承し、後世に伝えようと発足した。館林市を中心に、これまでに50回のシンポジウムと30回のフィールドワークを行い、会報や会誌を発行してきた。これまでに、宇井純さんや東海林吉郎さんら研究者や被害地の地元関係者などが、公害先進国日本をどうするか、学校での公害教育をどう進めるかについて議論、学習するなど、わが国の正造研究をけん引してきた。

しかし、会員や運営に当たる幹事の高齢化や後継者の不足、さらにコロナによる活動の停滞により、今回のシンポで幕を閉じることにした。36年の歴史を持つ栃木県佐野市の田中正造大学も先月閉学している。

私が田中正造に関心を持つようになったきっかけは、旧水海道市立図書館長の谷貝忍さんから「村で仕事をするなら、田中正造のことを勉強しろ」と言われたことだった。それから田中関係の本を読み、佐野市の生家や谷中村、松木村、足尾銅山の構内などを歩き、正造のような生き方をしたいと思ったこともあった。北海道の雪印乳業の創始者黒沢酉蔵は、すぐ近くの常陸太田市の出身だが、北海道に渡る前に、正造の手足となって谷中村などで活動したこともあとで知った。

目前の事件に真正面から向き合う

ここでは、同研究会の歩みとこの日のシンポの全体については書けないので、私がこの日に学んだことを記す。

「足尾鉱毒事件とは何か。煙害+毒水害であり、最上流の松木村と最下流の谷中村が廃村になった。この事件は近代日本で起きた最大の公害事件であり、この教訓が今まで生かされてこなかった。チッソ水俣病、三井金属鉱業イタイイタイ事件、東京電力福島第一原発事故などすべてで足尾銅山鉱毒事件の総括をせずに、問題を先送りしていることが原因だ」

「政府は国策の加害企業を一貫して擁護してきた。誰一人責任を取らない。謝罪しない。国は被害地域全体の健康・病理調査をせず、被害を隠蔽し、事件はなかったことにしようとしている。マスコミ、労組、司法も含めて、政・官・学・業が癒着・一体化している。生命よりも利益、経済優先の社会が続いている。被害者が立ち上がらない限り救済はされない」

「一般的な正造像は、近代日本の公害を告発した先駆者、命を賭けて天皇に直訴した偉い人、義人というもの。しかし、祭壇に祭られた偉人正造ではなく、欠点や失敗もあった普通の人正造が、目前の事件に真正面から向き合い、そこで学び、血肉化して死ぬまで成長し続け、民を裏切らなかった。その過程を学ぶことが大事」(元瓜連町長)