【コラム・斉藤裕之】目が覚めて時計を見る。まだ朝には大分早い時間だ。それに昨日よりも一昨日よりも早くなっている。人の体内時計は月の暦になっているらしいということを、東京芸大の名物授業であった生物学の講義で三木先生は力説しておられた。私の中の時計も月に操られているのか。このままだと、どんどん起きる時間が真夜中に近づいていってしまう。

もう少し眠ってみようかと思って布団をかぶるが、完全に目が覚めてしまった。コーヒーを淹(い)れてから描きかけの絵に向かう。バイクが近づいてきてパタンとポストに新聞を入れる音がした。新聞を斜めに読んでから、まだ暗い中、犬の散歩に出かける。

そういえば今日は十三夜だと言っていたな。住宅街の屋根に近い月は驚くほど大きい。なぜ月がこれほど大きく見えるのか。専門家の説明を聞いても納得できない。散歩コースの住宅街に残された竹林の脇を通ると、必然的に思い出すのは竹取物語。竹から生まれた女性が散々わがままを言って月に帰って行くという、何とも煮え切らない物語。

まんまるお月さん。昔の人がまんまる、いわゆる正円を見るとすれば、月か太陽、それから瞳…、竹の断面。「うさぎ うさぎ なに見て跳ねる…」。正円という特別な形は神秘性や物語を生むらしい。しかし十三夜や十六夜(いざよい)のように、ほんの少し不完全なものに風情を感じるところにも日本の感性の懐の深さ。

月の影響でなく歳のせい

最近、有名な絵画にトマトスープやマッシュポテトを投げつけたというニュースが流れた。何百億円もする一枚の絵が、今の格差社会のアイコンとして生贄(いけにえ)になったわけだ。近年、中国が月に基地を造るとかアメリカがアルテミス計画を進めているとか、ここにきてにわかに月面が騒々しくなっている。そのために、それこそ天文学的なお金がつぎ込まれているはずだ。

裕福な、いわゆる1パーセントの「持つ者」が、驚くような金額を支払って宇宙旅行に出かけようともしている。99パーセントの「持たざる者」は、もっと地に足の着いたことに公金を使ってほしいとその映像を冷ややかに見ている。

海辺に住んでいる人や釣りの好きな人達には、大潮だの満潮だのが話題になることがあるけど、ほとんどの人は月を見て潮の満ち引きに考えを及ばせることはない。食品のほんのわずかな値上がりには敏感な庶民には、例えば国防予算の増大などはあまりにも大きくて、遠くで起きていることとして実感が沸かないのと似ているかもしれない。

私の早起きは月の影響ではなく、恐らく歳のせいだと思うのだが…。そういえば、うちの子もセーラームーンが好きだったな。車の中でエンドレスで聞かされたCDのおかげで、今でも主題歌をソラで歌えるもんなあ。でもなんで「月に代わってお仕置き」なんだろう…。そんなことを綴(つづ)っていると、やれやれやっと東の空が白み始めた。(画家)