【コラム・先﨑千尋】去る19日、「ホンモノの国葬」をテレビで見た。イギリスのエリザベス女王の国葬だ。聖歌が響き渡る中、王室旗がかぶせられ、王冠を載せた女王の棺(ひつぎ)がゆっくりと教会の回廊を回る。壮大で厳粛な儀式だった。イギリスの王室制度をどう評価するかはさておき、世界史の中でのイギリスの栄光を見せつけられた思いだ。

翻ってこの日本。明日27日、7月8日に凶弾に倒れた安倍元首相の「国葬儀」が東京の日本武道館で行われる。こちらは賛否両論どころか、反対の声が日増しに強くなり、報道機関の世論調査ではダブルスコアで反対、評価しないという結果になっている。国会議員では、野党第一党の立憲民主党党首だけでなく、自民党からも村上誠一郎元行革相が欠席、と伝えられている。

強い反対の声を押し切っての国葬。当事者の安倍さん、遺族の昭恵さんや国葬を決めた岸田総理の心中は分からないが、おそらくこんなはずではなかった、と考えているのではないか。イギリスのすぐあとということもあって、二番煎じの感がする。

法的根拠がない

私は今度の安倍さんの国葬に反対だが、その理由は二つある。

一つは、法的根拠がないということだ。内閣法制局の見解では「国葬とは、国の意思により、国費をもって、国の事務として行う葬儀をいう」だ。では、国の意思とは何か。

国会、行政、司法の三権のうち、「国権の最高機関」であり「全国民を代表」するのが国会だ。意思決定過程に国会が関与することが求められるというのが、衆院法制局の見解。岸田さんは内閣府設置法をもとに、国葬は「その都度、政府が総合的に判断するのがあるべき姿だ」と言っているが、詭弁(きべん)でしかない。

国葬が「国の意思」によって行われるものだとすれば、内閣(行政府)の一存では決められない。現憲法下では、国民が主権者であり、内閣は主権者ではない。国会が決めたことを執行するのが内閣なので、国葬にすることを国会での議論を経ずに閣議で決めることはできない。

岸田さんは、民主主義のプロセスを無視してきた安倍首相のやり方を踏襲した、と考えているのだろうか。山崎拓・元自民党副総裁ですら「安倍元首相国葬決定はあまりに拙速すぎた。国会に諮るべきだった」と批判している(「NEWSポストセブン」8月29日)。

「業績」も?

反対するもう一つは、安倍さんの「業績」のことだ。私はこれまで、このコラムでかなりしつこく安倍政治を批判してきた。特定秘密保護法や集団的自衛権を認めた戦争法の制定や憲法解釈の変更、共謀罪の創設、東京電力福島第1原発の事故を忘れさせるための東京オリンピック誘致(安倍さんが亡くなった途端、膿が一気に噴き出してきた)、憲法改悪の準備―などなど。また、国会で平気で嘘をつき、ごまかした。

新基地反対の声を上げ続ける沖縄や安倍政治に抗議する人たちには居丈高になり、強大なアメリカに対しては卑屈になる。「地球儀を俯瞰(ふかん)する外交」と言いながら、北朝鮮の拉致問題は置き去りにし、プーチンと何十回も会ったと言いながら、北方領土問題は1ミリも動かなかった。

仮に国葬を認めるにしても、以上の理由で、安倍さんはその対象にはならない。内閣葬か、「お別れの会」なら仕方がないが。(元瓜連町長)