【コラム・奥井登美子】9月1日は防災の日。私は防災用品の点検をする日にしている。関東大震災を知っている人はいなくなってしまったが、子守歌代わりに震災の恐ろしさを聞いて育った私にとって、忘れられない日なのだ。

父は子供が大好きで、慶應義塾の学生時代、近所の子供たちを集めて、水泳を教えたり、絵本を読んだり、藤友会という「こども文庫」みたいなものをやっていた。母は、弟たちを藤友会に連れて来て、父と親しくなり結婚したらしい。

大正12年(1923)9月1日。20歳の母は妊娠8か月。東京中央区新富町に住んでいた。お昼時。食事をしようとしたら激震。周りは木造の家屋。竈(かまど)で薪(まき)をくべて煮炊きする時代だったから、地震でつぶれた家屋から発火し、引火して、町のほうぼうが火事。逃げるしかない。父と相談し、目の悪い姑(しゅうと)の手を引いて、3人で皇居前広場を目指して避難することになった。

火事の火を避けて歩いていたけれど、銀座通りを横切る時。すごい風が火の玉となってぶつかってきて、危うく死にそうになったという。

皇居前広場のあたりは、昔、三菱ヶ原と呼んでいた。父が子供の頃、トンボ取りをした原っぱがあったという。新富町あたりの子供たちは、4キロくらい離れた皇居前まで遊びに行っていたらしい。皇居前広場はたくさんの人が避難していて、喉が渇いて水が飲みたかったが、某国人が井戸に毒を入れたから井戸水は飲むなという「オフレ」が出て、つらかったという。

父は足を棒にして友達の家を探し回り、慶應同級生の亀山さんの目黒の家が焼けずに残っていたので、その家に転がりこんで、お世話になった。母は芝公園の中の仮設産院で兄を出産した。着るものがないので、亀山さんの妹の跡見女学校の制服を着ていったという。兄の加藤尚文(故人、経済評論家)の戸籍謄本には、出生地芝公園内2号地と書かれていた。

母から聞かされた震災の恐怖

母は震災後の精神的後遺症なのだろうか、10年間子供がつくれなかった。10年目に私が生まれて、物心ついた時。私を相手に、震災で避難の時の恐ろしさを、繰り返し、繰り返し、語っていた。

10年目に生まれた娘にその怖さを語ることで、精神的なゆとりを取り戻していったのだろう。幼い時、母から何百回も聞かされた震災の恐怖。母のPTSD(心的外傷後ストレス障害)を忘れないように、私はその日を、今でも防災用品点検日にしている。(随筆家、薬剤師)