【コラム・田口哲郎】
前略

蒸し暑いながら、どことなく秋めいてきました。空気が冷たくなり、道には落ち葉が落ち始めています。空の雲も夏の入道雲からうろこ雲みたいになっています。セミが盛んに鳴く夏が去りゆき、草むらで鈴虫が鳴く秋が近づくと、なんとなくさびしい気分になります。

さびしいときに思うのは、過去のことです。今年になって戦争や元総理襲撃、豪雨災害が起こり、世界はいよいよ混迷を深め、激動の時代が来る予感がしています。先の読めない時代にあって、過去は過ぎ去って確定した世界です。変えられないからこそ変わらない世界に、なぜかノスタルジーを感じるのは人情というものかもしれません。

私の世代、40代前半は、青春時代にはすでにバブル景気は終わり、学生が終わるころは就職氷河期でした。自己責任が叫ばれた社会で、かつての終身雇用制のような安定を求めることもできず、非正規雇用で辛酸をなめる人も多かったです。

そして、心を病んでしまう人もいて、ミドルエイジ・クライシスが問題化しました。さんざんな印象の時代ですが、それなりに思い出はあります。

カフェ・ブームとクラブ・ブーム

バブル崩壊でつかのまの栄華が終わり、空洞化していた東京の雑居ビルに、小さなカフェが次々と開店し、カフェ・ブームが起きました。今ではめずらしくないですが、小さいながら、モダンなインテリア空間で、健康志向のカフェ飯をいただくというスタイルが確立されました。

そして、クラブ・ブームも起こりました。六本木のマハラジャや湾岸のジュリアナで有名な大型ディスコではなく、やはり雑居ビルの一室で、D Jが流す、電子音楽に満ちたこぢんまりとした空間でゆるく踊るのが流行しました。カフェやクラブは渋谷の裏通りや恵比寿、西麻布あたりにあり、いわゆるメジャーな街にはありませんでした。右肩上がりの時代が終わり、なんとなく暗い気分の若者の感性に合っていたのでしょう。

庶民は不景気に苦しんでいましたが、一方で世界のだぶついたマネーが日本に流れ込みました。その資金によって、大手デベロッパーによる再開発が進み、東京中の裏通りがきれいな複合施設に生まれ変わる直前の風景です。

過去のノスタルジー効果なのでしょうか。幸福感もなく、次々と起こる社会変化を控えていた当時のほうが、今よりも幸福だったような気がします。これは思い出の美化で、妄想なのでしょう。こうした追憶から目が覚めたら、変わり続けている社会に適応していかねばなりません。「今」というのはおそらく過去の価値観が通用しないものです。

時流に乗る苦労に対するささやかななぐさめがノスタルジーなのであれば、これからはもっとノスタルジーにひたることが増えそうです。ごきげんよう。

草々
(散歩好きの文明批評家)