【コラム・田口哲郎】
前略

つくばの公園を歩いていて、日々うつくしい景色にいやされています。ふと道ばたに転がっている石に目がとまりました。福沢諭吉の幼い頃に石ころにまつわる興味深い話があります。諭吉少年の村には神社があり、村人は小さな社(やしろ)を熱心に拝んでいました。その中には神様がいるから、小さな扉は絶対に開けてはいけない。開けたら天罰がくだると教えられていました。

でも、好奇心の強い諭吉は扉を開けます。そこにあったのは小さな石ころです。諭吉は拍子抜けして、その石ころを投げ捨て、その辺の石ころとすり替えました。天罰がくだるかビクビクしていたけれども、結局何も起こらなかった。石ころに神さまが宿るなんてウソだと思った、という話です。

注目したいポイントは、村人と諭吉が石ころから読み取る情報が違うことです。村人は石ころから神さまを、諭吉は石ころから石ころを読み取ります。それぞれが石ころにふたつの情報を与えています。このふたつの情報は要するに、宗教と自然科学です。

諭吉の時代は村や集落単位で宗教が決まっていたけれども、現在信じるも信じないも、個人の自由です。自由は良いことです。でも、自由だからこその不安というものもあります。昔はがっちり個人がはめ込まれていた共同体が行なっていた心のケアが、古い体制から個人が解放されたと同時に無くなってしまったケースが多いです。だからこそ宗教が必要だとは言いません。必要かどうかは個人の自由です。

でも、必要な場合に、必要としている人に適切なケアがゆき届くことは必要だと思います。とくに、地縁と血縁がなく、都会の新興住宅地で孤独に暮らしている人々にはそうでしょう。

パーソナルな新しい宗教が必要とされている

特定の宗教を信仰はしていないけれども、神や超越的な存在を信じて、個人的な精神的世界を育んでいる人たちがいます。スピリチュアリティーと呼ばれる新しい宗教現象とみなされるものです。今までの宗教におさまりきらない宗教的なものを広く指す言葉です。オカルトなども含まれます。このスピリチュアリティーは今までも広まってきていて、今後も広がると予想されています。

福澤諭吉の時代のように、これから国を発展させようという雰囲気のなかでは、宗教よりも自然科学を信じることのほうが有益だったのかもしれません。でも、国がある程度発展して、物質的に豊かになり、信教の自由が保障されている現在、自然科学と同じくらいにスピリチュアリティーのような広い意味での宗教が必要とされているのかもしれません。

何度も言いますが、何かを信じることは個人の自由です。ただし、この自由は常にすべての人々を幸福にするものであってほしいと思います。大勢をひとまとめに救うのも大切なことですが、ひとりひとりを大切にするていねいな救いが今の時代は求められているのかもしれませんね。ごきげんよう。

草々
(散歩好きの文明批評家)